朝5時、トレーニングへ出発
半藤一利の昭和史を聞きメモを取りながら。。
長岡大橋から蔵王橋方面
結構早朝はもやっている・・
走り、メモをとるときだけ歩く(Googleドキュメントに打ち込む)
殿町踏切 JR貨物が長岡駅を素通り(停まる必要はそもそもない)
しかし何を積んでいるのだろう。。鉄道でモノを送る人というかニーズはあるんだな。。
長距離の場合、トラック輸送よりも安くなるし、大量に送る場合も割安になるようだ。
母送迎。
迎えにいくと久しぶりに調子悪い(元気よすぎ)。
帰りは丸亀に寄ろうと思ったが断念してローソンでカップそばとおにぎり購入
Oチャンの素材集めを地道に進める
夕食はチャーハン。でもこのたくあんの浅漬?がめちゃうまい。
酢の物
妹による柴漬け入りのチャーハン。これはおそらく長岡のラーメン「栄華楼」にインスパイアされたものだろう。美味い。
夜はピアノ弾いたりいろいろやって23時頃就寝か。
学び
日独伊三国同盟と独ソ不可侵条約について、平沼内閣総辞職まで
昭和14年(1939年)、日本は中国戦線の泥沼化と欧州の急激な情勢変化に直面し、国家の進路をめぐって深刻な混迷を深めていた。
近衛文麿内閣は、戦局の打開と欧州強国との協調を模索したが、政局を支えきれず退陣し、平沼騏一郎が首相に就任した。この頃、ドイツから日独伊三国同盟の提案が正式に持ち込まれた。陸軍はこれに賛成し、同盟締結で中国戦線を有利に運び、英国や米国を牽制する意図を抱いた。一方、海軍は真っ向から反対した。
海軍はドイツが本当に日本を助けるのか疑問視し、米英を敵に回すことは制海権を喪失し、国力を著しく消耗させる危険が大きいと考えた。
当時の知識層には、ドイツを文明の範とみる意識も根強かった。憲法や医学、文学など、近代日本の多くの文化はドイツから輸入された。ドイツ人は勤勉で規律を重んじ、法に従う単一民族国家のゲルマン民族であり、日本人とよく似ているという親近感が語られた。
昭和14年4月には天津事件が発生した。国民政府の背後にいる英国の影響を排除すべきだとの声が陸軍内に強まり、山下奉文ら強硬派が天津の英租界を封鎖した。この排英運動は新聞各紙が共同声明を出して世論を煽り、国民感情の敵愾心を高めた。
一方、アメリカは日本にとって正面の敵として台頭しつつあった。その頃、アインシュタインがウラン235の中性子核分裂を軍事利用すべきだと、ルーズベルト大統領に書簡で提案した。核兵器開発が現実の脅威として始動した時期である。日本では零式艦上戦闘機(零戦)の開発が進み、航空戦力の近代化が加速した。
国内では国家総動員法に基づき、統制が徹底された。お中元や贈答習慣は贅沢とされ、長髪やパーマは禁止されるなど日常生活にまで統制が及んだ。金の徴発も進み、市民から貴金属を徴収する政策が行われた。永井荷風はこの状況を風刺し、個人の自由が圧迫される様を描いた。
中国大陸では満蒙開拓義勇軍が農村の次男三男や都市の失業者を「国策移民」として送り出した。同じ頃、朝鮮では創氏改名政策が進められ、伝統的な儒教文化や姓の継承が踏みにじられた。
欧州情勢はさらに激動した。スターリン率いるソ連は当初、英仏と提携する動きを示していた。ポーランドはすでに英仏と同盟関係にあり、ドイツがポーランドを侵攻すれば、必ず英仏が参戦する情勢であった。ヒトラーはこの場合、英仏だけでなくソ連とも敵対する危険があると考えた。これを避けるため、先にソ連と提携して背後を固める必要があった。
こうした計算のもと、昭和14年8月、独ソ不可侵条約が突如締結された。これは欧州情勢の「青天の霹靂」となり、対ソ作戦を前提に動いていた日本の関東軍と陸軍に衝撃を与えた。
この条約締結によって日本外交の対独協調路線は根底から揺らぎ、平沼内閣は「もはや欧州情勢は複雑怪奇」と言い残し、総辞職を余儀なくされた。
その後、陸軍の意向を背景に阿部信行陸軍大臣が首相に就任した。天皇は陸軍が推挙した阿部を正式に任命した。一方、率直にものを言う山本五十六は、海軍大臣就任は叶わず、連合艦隊司令長官の任に就くこととなった。
こうして昭和14年の日本は、国内の統制強化と対米英対立の深化、欧州情勢の急変という三重の圧力の中で、さらに危うい道を進んでいったのである。