6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月14日(月)野菜たっぷりの味噌汁、すじこ、明太子、生姜味噌漬けの朝ご飯

朝トレ
朝から日差しが強すぎだろ。
これは信濃川土手にはいけん、ということで新町3丁目Uターンからの大手通コース。

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朝飯。野菜たっぷりの味噌汁がいい。じこ、明太子、生姜味噌漬け
田舎の朝ご飯最高。

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学び 半藤一利 昭和史 18
ChatGPTが落ちたのでcopilotで。しかしちょっと支離滅裂な部分があったのでclaudで。

開国からワシントン軍縮会議までの日本史

開国への転換と国際情勢の変化

慶応元年(1865年)、日本は長年にわたって堅持してきた攘夷政策を諦め、開国へと大きく舵を切った。この時期、アジア各地は西欧列強の植民地と化しており、日本もまた同様の運命を辿る危険性が高まっていた。しかし、西欧列強がアフリカにおける植民地獲得競争に注力していたため、日本には貴重な時間的猶予が与えられていた。

この状況の中で、特にロシアの南下政策は日本にとって深刻な脅威となっていた。ロシアは不凍港の獲得を切望しており、極東地域への進出を活発化させていた。また、1900年(明治33年)に発生した義和団事変では、日本は列強の一員として出兵し、国際社会における地位の向上を図った。これは司馬遼太郎の『坂の上の雲』が描く時代、すなわち日本が近代国家として「坂の上の雲」を目指して駆け上がった時期に相当する。

防御から拡張への政策転換

日本の対外政策は、当初の防御的姿勢から次第に拡張的なものへと変化していった。明治維新から40年間で近代国家を建設し、その後の40年間で破滅への道を歩み、敗戦に至った。そして戦後復興から40年を経てバブル崩壊に直面するという、40年周期の歴史的パターンが見て取れる。

日露戦争の勝利により、日本は満州における権益を獲得した。南満州鉄道の経営権と関東州の租借権を得た日本は、鉄道守備のための軍隊を駐留させ、営業権と居住権を確保した。これらの権益は日本の国防最前線と位置づけられ、当初1万人程度であった駐留軍は、最終的に70万人規模まで拡大することになった。

満州政策の展開と朝鮮併合

100万人の日本人が満州に移住し、この地域は日本の生命線と見なされるようになった。しかし皮肉なことに、満州には石油資源が存在しなかった。明治43年(1910年)には朝鮮併合が実現し、日本の大陸政策は新たな段階に入った。

満州は清朝発祥の地であり、中国人にとって特別な意味を持つ土地であった。魯迅、孫文、蒋介石といった中国の知識人たちは、当初日本に留学し、近代化のモデルとして日本を尊敬していた。しかし、日本の大陸進出が本格化するにつれて、この関係は悪化していくことになる。

清朝の衰退と中華民国の成立

清朝が衰退した要因の一つは、各地に割拠する軍閥の存在であった。中央政府の統制が利かず、国家としての統一性を欠いていたことが、列強の侵入を容易にしていた。1911年(明治44年)の辛亥革命により清朝は倒れ、翌年中華民国が成立した。

その後、国民政府軍が各地の軍閥を討伐する北伐を実施し、蒋介石が北京を占領して中国統一を図った。この過程で反日運動が激化し、日中関係は急速に悪化していった。

第一次世界大戦と日本の対応

第一次世界大戦では、ドイツを相手に英仏ロシアが戦うという構図が展開された。日本はドイツに宣戦布告し、太平洋上のドイツ領マーシャル諸島を占領した。また、中国に対しては「対華21ヶ条の要求」を突きつけ、満州における権益の拡大を図った。

しかし、この強硬な姿勢は中国国内の反日感情を一層高めることとなった。芥川龍之介の中国訪問レポートにも、この時期の反日運動の激化が記録されている。日本の視線は満州に集中し、中国本土での影響力拡大に腐心していた。

ワシントン軍縮会議と日英同盟の終焉

第一次世界大戦後の1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて、ワシントン軍縮会議が開催された。この会議では、主力艦の保有比率がアメリカ5:イギリス5:日本3の割合で決定された。日本代表団を率いた加藤友三郎海軍大臣は、この条約の締結に尽力した。

この会議でアメリカは、日英同盟の解消を強く求めた。1902年(明治35年)以来、日本の外交政策の基軸となってきた日英同盟は、昭和9年(1934年)に正式に破棄されることとなった。これにより、日本は国際的に孤立する道を歩み始めることになる。

ワシントン軍縮会議は、日本の対外政策における一つの転換点となった。軍備拡張競争から軍縮協調へと方向転換を図ったものの、結果的には日本の国際的地位の相対的低下を招くことになった。この時期を境に、日本は協調外交から独自路線へと舵を切り、やがて第二次世界大戦へと向かう道筋が形成されていくのである。