6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月2日(水)長岡花火屋形船の船着き場、夕涼み散歩は良き、国家総動員法(昭和13年)で日本は暗黒時代へ

朝5時に母が散歩に行きたいと、
今日も暑いので今の時間帯がベストと出発。
ぐるりと土手をまわる。涼しいな。
東京と違って自然が多いので早朝と夜は気温が冷え込むのだろうか。。

 

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その後母を家に送り10Kウォークへ
大手大橋に向かう東岸土手 花火の準備が進む
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大手大橋の下道をいく。
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屋形船専用の船着き場
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Dチャンの素材収集新方針と新しい検索プロンプトの発見。
動画だけをバンバン収集するというもの。

夜は煮物など。

夕涼み散歩に一人で出かけた。眠気覚ましを兼ねる。

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夜もいいな。ってこの時19時過ぎてる。
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我が母校、川崎小学校と夕暮れ
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Oチャンの素材収集台本調整
ウイスキーを薄くして水割り。



学び
昭和11年の2.26以降、軍人が政治中枢を握り軍部の独走を許す国家総動員法の提出と発動(12-13年)。日本が暗黒時代に入っていく全てがこの期間に整えられていった・・・


昭和12年(1937年)に始まった日中戦争は、当初の予想を超えて泥沼化していった。南京を陥落させても中国国民党政府は屈服せず、抗戦を継続した。

中国共産党の八路軍は、正面衝突を避け、農村を基盤に「点と線の戦略」を展開した。鉄道や補給線を襲撃し、日本軍を消耗させながら支配地域を拡大する持久戦に持ち込んだ。

一方、近衛文麿首相は強気の外交方針を打ち出し、「国民政府を対手とせず」とする声明を発表した。これは蒋介石政権との交渉を事実上拒絶する立場であり、戦争の長期化を決定づけた。

しかし、参謀本部の一部には補給線の確保や対米英関係の悪化を危惧する和平派も存在していた。北支に展開する兵站の維持は困難を極め、兵力の膨張と補給の疲弊が深刻化していった。

昭和12年、日本はついに海軍軍縮条約(ワシントン条約・ロンドン条約)から脱退した。条約では主力艦保有を米英に対し5:5:3の比率に制限されていたが、これを拒否し、戦艦や空母の拡充を進めた。

この軍備拡張の流れの中で、陸軍では東條英機らが台頭し、対米英戦争を念頭に置いた国家総動員体制の強化が進んだ。昭和13年(1938年)、近衛内閣は国家総動員法を提出し、議会の議決を経ず勅令だけで経済・労働・言論などあらゆる政策を統制できる仕組みを整えた。

国家総動員法の最大の特徴は、勅令によってほとんど無制限にあらゆる政策を実行できる点にあった。議会の議決を経ず、内閣の判断だけで経済・労働・物資・報道・金融などの統制を強行できる仕組みである。

具体的には、産業の統制、賃金や価格の制限、徴用令状による労働力動員、報道機関への検閲や指示、資本や企業の活動制限まで、社会のあらゆる分野が対象となった。平時の憲法上の権利は大きく制約され、国家の意思が優先される体制が制度的に確立された。

民政党や政友会など保守政党は、「議会軽視の独裁体制だ」と強く反発した。一方で、左翼勢力の一部は「資本主義体制の解体を促進できるかもしれない」と賛成の姿勢を見せるなど、支持と批判は分かれた。

国家総動員法に基づき、以後の日本は戦時体制へ加速度的に移行する。政府は生産・労働・言論を統制し、総力戦に備える名目で社会のあらゆる自由を抑圧した。これにより軍人と官僚が政治を直接動かす権限を握り、立憲政治の形骸化が決定的となったのである。



民政党や政友会からは「議会無視の独裁」と反発が相次いだが、左翼勢力は「資本主義体制を動揺させられる」と賛同する一面もあった。国家総動員法を批判した西尾末広代議士は除名され、当時ムッソリーニのイタリアに似た権威主義への移行が指摘された。

一方、対中戦線では昭和15年(1940年)、国民党の重鎮・汪兆銘を南京に擁立し、傀儡政権である中華民国政府(南京国民政府)を成立させた。近衛は「東亜新秩序」の建設を掲げ、米英の植民地支配を打破する理想を宣伝したが、欧米諸国はこれを日本の侵略行為とみなし、対日姿勢を硬化させた。

北方では昭和14年(1939年)、満蒙国境のノモンハンで関東軍とソ連・モンゴル連合軍が衝突する。これは関東軍の独走による挑発が発端であり、戦車・航空機を大量投入するソ連の近代火力に対し、日本軍は精神主義と歩兵突撃で挑んだ。

結果は大敗に終わり、死傷者は2万人を超えた。この敗北は陸軍に衝撃を与え、以後、戦術や装備を根本から見直し、火力兵器の整備を進める契機となった。

こうして日本は対中国戦線での膠着、ソ連との国境紛争、欧米との対立を同時に抱える袋小路に陥り、さらなる破局へと歩みを進めることになる。