6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月4日(金)大谷精肉店、昭和15年ドイツの快進撃と戦争突入

朝トレ 10k 大谷肉店、長町かな、ここの近くに住んでたことがありよくメンチとかコロッケ買ったな。まだ営業してるのはすごい。

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昔この先にキャバレーハワイとパチンコ屋があった。

 

流石に6:30近くになると日差しは危険。

信濃川西岸を降りたところを進む。
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日赤の施設。
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大手大橋
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YouTube作業

夜はカレー
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寝る前に1時間半ほど素材集め。

23:00から就寝


学び 半藤一利の昭和史

昭和十五年の分岐点――孤立と対決への道
  近衛文麿内閣と三国同盟、山本五十六の苦悩、星ヶ丘茶寮で交わされた密議


昭和15年(1940年)、日本は戦争と孤立への道をさらに深めていた。米内光政内閣は中国戦線の膠着を収拾し、英米との対立を避けるため慎重な外交を模索していた。しかし、ドイツの欧州制覇に触発され、「日本もドイツに続くべきだ」とする世論が急速に勢いを増していた。

同年5月、ドイツは電撃作戦を発動し、オランダ・ベルギー・フランスをわずか数週間で降伏させ、欧州大陸の大半を掌握した。この衝撃的な勝利は、日本国内の親独感情を一気に高めることとなった。

米内内閣は三国同盟に終始慎重、事実上反対の立場を取った。しかし陸軍の圧力と国民の高揚した感情に押され、ついに総辞職に追い込まれた。

後継として、再び近衛文麿が首相に就任した。近衛は「反英米」の姿勢を一層鮮明にし、しばしば東京・青山の星ヶ丘茶寮に政財界やマスコミの有力者を招いて密談を重ねた。星ヶ丘茶寮は、閑静な日本庭園を備えた料亭であり、戦前の政界における重要な会合の場であった。ここで交わされた言葉は、やがて国策の方向を決定づけるほどの影響力を持った。

新内閣の外務大臣に任じられた松岡洋右は、日独伊三国同盟だけでなく、さらにソ連を加えた「日独伊ソ四国同盟」を構想した。松岡は「米英を封じ込めるにはソ連とも提携すべきだ」と主張したが、この案は近衛の性急さとあいまって周囲に強い不安を与えた。

陸軍は三国同盟を国策と位置づけ、外交と内政に強い圧力をかけた。もともと海軍は三国同盟に反対し、特にアメリカとの衝突を避けるべきだと考えていた。しかしドイツの電撃戦の成功と親独世論の高まりに押され、最終的には賛成に転じた。

この海軍内部で、山本五十六は一貫して慎重論を唱えていた。彼は「アメリカとの戦争は絶対に避けるべきだ。戦えば必ず国が滅びる」と周囲に語り、同盟推進に批判的だった。しかしその姿勢が陸軍や親独派の反感を買い、海軍大臣には就任できず、連合艦隊司令長官に任じられた。以後、山本は開戦不可避となった場合に備え、航空戦力の徹底的強化と真珠湾攻撃を含む作戦構想を練ることになる。

一方、アメリカのルーズベルト大統領は、日本への圧力を次第に強め、航空機用ガソリンや鉄鋼の対日輸出を制限した。日本は資源のほとんどを輸入に依存する「石油・鉄・ゴムの三色国」であり、経済と軍事の生命線を絶たれつつあった。

資源確保のため、日本は東南アジア進出を構想した。特に、フランスの降伏によって実質的に無防備となったフランス領インドシナ(現在のベトナム南部)に拠点を築こうと考えた。しかしこれを実行すれば、アメリカは金融凍結や石油全面禁輸に踏み切る危険が高いと予想された。

欧州ではロンドン空襲が激化し、ドイツ空軍が英国を屈服させるべく猛攻撃を加えた。この光景は日本の親独派に「ドイツは欧州を支配する」との幻想を抱かせ、三国同盟支持を一層強める要因となった。

こうして昭和15年の日本は、陸軍の意向とドイツの快進撃、国内の世論に引き寄せられるように、対米英対立の深みへと踏み込んでいったのである。