6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月20日(日)五十市(ごとうのいち)、夜は暑気払いセミナー、執筆進む

朝トレ10k
日差し強く、国道8号バイパスでUターンし、市内中心部を南北にいったりきたりする(日陰を行く)。

アオーレではなにかのイベントの設営をしていた

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五十市。動画も撮影。長岡の動画、早く着手したい。
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今日はYouTube本第二章の締め切りなんでガッツリ進める。

17時から暑気払い飲み会セミナー
なんだか参加者少ないな。
録画配布は辞めるか・・・

20時過ぎに終了後、母を夕飯。

その後本執筆の続き。23時頃寝る。


学び 半藤一利 幕末史

ペリー来航と幕府の迷走——開国か攘夷か、揺れる日本

黒船来航、幕府を揺るがす衝撃

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは四隻の艦隊を率いて浦賀に現れた。日本側の通詞は英語を理解していたが、当初から交渉には困難があった。幕府はペリーから国書を受け取るや、ペリーには「出ていってくれ」と告げた。

当時西欧で一般的だった外交の理念から大きく外れたこの態度に激怒したペリーは、江戸湾に四隻の軍艦で強硬に乗り込む。品川沖に迫る。鉄板を貼った木造艦や蒸気船「ミシシッピ号」など、大砲を備えた軍艦の威圧に、日本は凍りついた。

起きたら困ることは、起きないことにしていた幕府

幕府首脳部の多くは、西欧列強は日本にまでは来ないと高をくくっていた。アヘン戦争で清が敗北したことを知りながらも、「起きたら困ることは、起きないことにしよう」とする楽観的な空気が蔓延していた。この姿勢は、昭和初期に「ソ連は満州に攻めてこない」と思い込んでいた日本の軍部にも通じるものである。

幕府は、川越藩・彦根藩・忍藩などに沿岸警備を命じたが、ろくな武器も兵員も用意されていなかった。武具の価格は高騰し、遊郭は閑散とし、経済も社会も混乱の兆しを見せていた。人手不足のため、浪人を仲介屋を通じて集め、やむなく警備にあたらせたのが実情である。

ペリーの動きと清国情勢

中国では長髪族の乱(太平天国の乱)が起きており、アメリカにとっても日本での炭補給地の確保は急務であった。同時に日本に長居はしていられないという事情もあったのだ。ペリーの背後には、米英仏が清国をめぐって火花を散らす世界情勢が控えていた。幕府にとっても悠長な姿勢では済まされない状況だった。

見物客と民衆の混乱

ペリー来航の知らせを聞きつけた江戸の人々は、好奇心から港に集まり、酒や水を売って一儲けしようとする者まで現れた。異国の軍艦が目前にある緊張感の中でも、民衆はしたたかに商機を見いだしていたのである。


家慶の死と政権の変化

時を同じくして、将軍・徳川家慶が死去。跡を継いだ家定は病弱で、政権運営に不安が広がる。家定と篤姫の間に実子はなく、はたして実際夫婦の関係にあったのかも疑わしい。

実権は老中筆頭、阿部正弘が握り、水戸藩の斉昭らが影響力を持つようになる。幕府は異例の対応として、大名、旗本、御家人、さらには町人にまで意見を求めた。この「意見徴収」は、外交の指針を幕府が解決できないことを、幕府自らが表明するものであり、やがてこれが尊王運動へと繋がる端緒となった。


開国派の台頭と勝海舟の登場

御家人の身分に過ぎなかった勝海舟は、建白書を提出し、海軍の創設と軍人育成の必要性を説いた。この提案は採用され、長崎に伝習所が設置される運びとなる。勝は一橋派として、のちに将軍継嗣問題でも影響力を持つ人物となっていく。

ペリー再来、和親条約の締結

1854年、ペリーは9隻の艦隊を率いて再来航し、羽田沖に停泊する。もはや幕府は軍事的に抗する術もなく、日米和親条約を結ぶに至った。この条約をきっかけに、オランダ・ロシアとも和親条約が締結され、開国は既定路線となった。アメリカは当然、日本との通商も視野にいれていたが、他の西欧諸国にとって日本はさほど魅力的ではなく、むしろ中国(清)を経済的に支配したかった。

外交に揺れる幕府、尊王と攘夷のはざまで

幕府はさらなる条約締結に向けて動きつつも、朝廷の権威に配慮する必要があった。この時、老中筆頭阿部正弘が病気を理由に辞任。代わりに開国派の急先鋒、堀田正睦が筆頭老中に。堀田は六万両を携えて京都に上洛し、朝廷工作を試みる。しかし、この時代の朝廷は力を失っており、斉昭らの影響が強く、簡単に承認は得られなかった。もちろん攘夷の急先鋒である斉昭は堀田が大嫌いであった。


將軍継嗣問題と開国・攘夷の分岐点

将軍家定が病弱であることから、次期将軍を誰にするかという問題が急浮上する。改革派の松平春嶽、山内容堂、島津斉彬らは、斉昭の子・徳川慶喜を推すが、「水戸藩からの将軍は認められない」という伝統もあり、反対の声も強かった。

対立候補は、13歳の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)(のちの14代、家茂)。血筋では慶喜を凌ぐともいわれたが、年齢や実績の乏しさから評価は割れていた。

この将軍継嗣問題をめぐって、「開国か攘夷か」「将軍職は誰がふさわしいか」「朝廷とどう関係を築くか」など、あらゆる国家的判断が交錯し、幕府は大きく揺れ動いていくことになる。