6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月21日(月)生涯ベスト3に入るカキフライ、Dチャン新展開・・・

朝トレ 10k
今日は海の日の振替休日で休み。6時に出発。
日差しが強烈なんで南北コースで愛宕アンダーパスを横断して新幹線高架横の日陰を利用して新町方面へ

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なかなか濃厚な良い日陰だ。ここを走るのと日向を走るのは疲労度が2倍は変わるであろう。


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北長岡駅前を通り越して城岡橋交差点でUターン
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新町三丁目の道標。富曽亀、山本村方面と読めるな。

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御降誕と読める。ただそのしたが読めん。
昭和?天皇誕生を記念して建立されたのか?
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この日の夜Dチャンネルのラップバージョンを作る。
SUNOすげぇ。残クレアルファードの管理者と連絡をとることに成功した。
なんかいい感じだ。

夜は母と義弟と駅ナカの長岡釜蔵総本店へ。
釜飯の店かなと思ったら釜蔵だった。釜飯はメニューにない。


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十全なす。これはちょっとがっかり
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刺し身五点盛りもいまいち!!

枝豆は茶豆で美味かった!
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ここで最強に驚いたのがこのカキフライ。
おそらく人生で食べたカキフライのうちベスト3に入る
揚げ方もうまくサクサク!そして中から濃厚なとろりとしたカキが!
今度来るときはカキフライだけでも良い。
つか今週中にもう一度行きたい笑

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ビール、ウーロンハイときてからの和牛重。これはちょっとヘビーすぎた。
まあ空腹なら美味しいのだろうな。
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帰宅して部屋から見える夕焼けがすごかった。
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今朝の学び
半藤一利 昭和史7-8

血と金に揺れた将軍継嗣問題──尊王・攘夷と幕府瓦解への序章


孝明天皇の攘夷論と堀田の苦悩

1850年代、尊王攘夷の機運が京都で高まるなか、孝明天皇は明確な攘夷論者であった。江戸幕府は開国の方針を決めたものの、朝廷の許可を得ずして動くことはできなかった。筆頭老中であった堀田正睦は、日米修好通商条約の勅許を得るべく、六万両もの大金をもって上洛し、公家工作に奔走する。

しかし、当時の公家社会は堕落しきっていた。一橋派と紀州派の両陣営から賄賂を受け取り、政治的判断ではなく金で物事を決する風潮が蔓延していた。福地源一郎が後年記した『幕府衰亡論』にも、この時代の公家層の腐敗が克明に記されている。

一橋派 vs 紀州派──将軍後継をめぐる政治闘争

将軍・徳川家定が病弱で後継を定める必要がある中で、福井藩の橋本左内や松平春嶽らは、一橋慶喜の将軍就任を主張する。一橋慶喜は斉昭の子で聡明な人物として期待されていた。

一方、譜代大名の中には、「水戸(外様的存在)から将軍を出すべきではない」との意見が根強く、血筋のよい紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)を推す声が強まる。公家社会でも紀州派が暗躍し、堀田の工作は無に帰す。六万両を使い果たした堀田は、何の成果も得られないまま京都を去ることになる。


井伊直弼の登場と一橋派の排除

ここで登場するのが彦根藩主・井伊直弼である。彼は「才能よりも血筋」を重んじ、紀州慶福を擁立する。安政5年(1858年)、井伊は徳川斉昭のサポートを受けて大老に就任すると、将軍継嗣問題の決着を急ぎ、一橋派の存在を幕閣から徹底的に排除する。

松平春嶽はこれに激怒した。

井伊直弼は、慶喜擁立派であった堀田正睦を更迭。幕府内は完全に紀州派に掌握され、井伊体制が固まった。

島津斉彬の急死と一橋派の動揺

一橋派の最後の望みは薩摩藩主・島津斉彬であった。彼は開明派として慶喜擁立に奔走し、朝廷とのパイプも持っていた。ところが、井伊の一橋派弾圧を回避していた斉彬は、突如として急死する。

慶喜にとって最大の後ろ盾を失ったこの出来事は、一橋派にとって大きな打撃となった。

尊王運動と密勅事件

さらに、水戸藩主・斉昭らが関与した「密勅事件」が勃発する。これは朝廷から幕府に対し、政治体制の改革を命じるものであった。

井伊直弼はこれに激怒。彼は「幕府の威信を損なうもの」として徹底的な弾圧に乗り出す。

斉昭と春嶽は「天皇の護衛」を理由に武力出兵をほのめかしたが、井伊はこれを国家転覆の企てとみなし、容赦なく弾圧を開始する。

安政の大獄──幕末弾圧の嵐

こうして始まったのが「安政の大獄」である。慶喜擁立に動いた者、朝廷と連携しようとした者、幕政を批判した者の多くが捕らえられ、処罰された。橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎などが犠牲となり、幕府の恐怖政治が全国に広がっていく。

勝海舟も井伊の政策を批判していたが、この時は直接的な処分は免れた。

斉彬、斉昭、直弼──短期間で失われた幕末のキーパーソンたち

皮肉なことに、安政の大獄が行われたわずか数年のうちに、幕末の政局を担った重要人物たちが相次いで世を去る。斉昭は急死し、井伊直弼は桜田門外ノ変にて水戸藩浪士によって暗殺される。

この頃には、斉彬もすでに病死しており、将軍継嗣問題に関わった主要人物たちが短期間で命を落とした。彼らの死は、政治の空白を生み、幕府の求心力を大きく失わせることとなった。

時代は動き出す

こうして、幕府は将軍継嗣問題から始まる内紛により、外圧に対応する政治的統一を欠いたまま、尊王攘夷運動の過激化と勤王思想の拡大を招くことになる。

安政の大獄は、幕府の延命策であったと同時に、自らの崩壊を早める火種となった。攘夷を掲げた孝明天皇の姿勢も変わらず、朝廷と幕府の溝は深まるばかりであった。

その後に続く政変、倒幕の動き、そして明治維新への流れは、この「将軍を誰にするか」という一見内向きな争いから着火したことを、歴史は記録している。