うちのカミさんが、今日出社する前に運転免許の住所変更に行きたいとのこと。
引っ越して2年近く経ってるのに・・(笑)
僕は引っ越してからすぐに変更しましたけど・・
警視庁下谷警察署にて
で、下谷警察署(東京都台東区)に車で向かった。下谷と書いて(したや)と読みます。
首都高上野線の入谷入り口に向かって左側にあってちょっと不便な場所なんです。
道を間違えながらようやく到着。しかし、どうみても中は真っ暗。看板にもブルーシートがかかってます。
そうです、下谷警察署は移転したのです。到着した場所は仮庁舎だったんですね。
で、スマホで新庁舎を調べたら・・・仮庁舎より自宅から近かった(爆)
さて警察署に向かう前に「判子」を持っていくかどうかについて軽く議論があった。
カミさん「判子なんて要らないわよね」
僕「うーん、要らないと思うけど一応調べてみるわ」
とパソコンに向かってググったら、どこにも判子・印鑑については書いてない。
ということで判子は不要と・・・
[Menu]
ん?
判子・・・
印鑑・・・
実は最近、判子が登場する本を読んだのを思い出しました。
判子という日本の不便な文化
そう、どんな書面にもサイン代わりに判子を使う日本の習慣、不便ですよね。
特に海外に長い間生活したことがある人は、むこうではなんでもサインで済むのに、日本では常に判子が求められる。
面倒です。
この社会の隅々まで判子捺印制度を制定したのは明治政府です。明治維新後の新政府、その司法省が制定したのです。
この時はサインでも良いのではないかという反対意見もあったのですが、当時まだ識字率は低く、文字すら書けない人が多かったので、判子にしたのだそうです。
これを発案し、徹底させたのが、佐賀藩出身の司法卿(きょう)、江藤新平。
司法卿 江藤新平とは?
佐賀藩というのは明治維新立役者の薩長土肥の最後に加わった藩です。肥前の国(佐賀県と長崎県の一部)を統治してきた藩です。
いつ加わったかというと、新政府軍が江戸城を無血開城させ、彰義隊が上野の山に立てこもったあたりからです。
その時は、日本では唯一、佐賀藩のみが所有していたアームストロング砲を、不忍池の反対側(湯島のあたり)から上野の山に向けてぶっ放したそうです!
出典:https://shinyokan.jp/senryu-blogs/akiko/22829/
当時、佐賀藩は長崎防衛のためせっせと海外から銃器を買い漁っていたので、薩長は佐賀藩の新政府軍加入を歓迎しました。
ただ一方で、大政奉還後、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に突入して、新政府軍の勝利がほぼ決まったあたりで、官軍に寝返った佐賀藩を、よく思わなかった人々も多かった。
そんな混乱の中で頭角を現したのが江藤新平です。
彼は、武士の中でも最下級である足軽のさらに下。つまり、ものすごい貧乏武士。それが出自。
しかし、知識欲は旺盛で、一人脱藩して革命の機運高まる京都を見て回り、長州藩のリーダー桂小五郎(木戸孝允)や三条実美(さねとみ)といった革命派の公卿たちから知己を得ることができた。
あれ?ちょっと話が判子からどんどんずれていってる。
まあその後紆余曲折あって、彼は司法卿となって明治新政府の参議(今の大臣)となった。
そこで警察組織を企画し、立法化し、制定したのです。
日本の大名、旗本の度肝を抜き、徳川300年の歴史をひっくり返した廃藩置県も実は江藤のアイデアだったそうだ。
士農工商の武士という身分は突如、この世から姿を消したのです。
当然、突如裸にされた元武士たちは、不満を募らせて日本中に散らばっているのです。
つまり維新という革命に対する反革命勢力。
そういう勢力は薩摩にもいたし長州にもいたし、佐賀にもいた。
明治政府を真っ二つに分けた征韓論
そんな状況で現れたのが征韓論。征韓、つまり朝鮮を制圧しようとすること。
征韓論を唱える筆頭が西郷隆盛。
西郷隆盛 出典:wikipedia
一方、征韓論反対派の筆頭は参議、大久保利通。
大久保利通 出典:wikipedia
当時の明治政府の要職は薩長で占められていたことを不満に持っていた江藤新平はここで西郷側、つまり征韓派についた。
江藤においては、征韓論争を利用して、薩長を分断、明治政府をリセットしようと考えていたのだった。
実際、当時の明治政府は圧政による汚職、商人からの搾取にあふれてました。江藤は、司法卿としてそれら汚職に染まる官僚らを、法の下で粛清してきた。
結局は内政の整備を優先すべきとする大久保の意見を、綿密な根回しの上で天皇に採用させた。
破れた西郷は東京を去り、鹿児島に帰った。
江藤も辞表を提出。反明治政府に湧く、地元佐賀を鎮定する名目で佐賀に帰る。
しかし、ここで逆に彼は反政府運動の頂点に祭り上げられる。
まあ江藤にしても、征韓論を利用して薩長に牛耳られる明治政府を一度破壊したかったわけだから、反政府運動、つまり新政府に対する謀叛(むほん)を選択。
一方、もともと江藤を殺してやりたいくらい憎んでいた大久保は江藤の動きを察知するや、大軍を佐賀に送る。
これが佐賀戦争(明治7年)。
佐賀戦争
江藤らは戦争の準備をしている間に、政府軍に佐賀を囲まれる形となる。それくらい大久保の動きは早かった。
もはや勝ち目無しと悟った江藤は、従者数人を連れて、佐賀を船で脱出。
鹿児島の西郷に会いに行く。佐賀で駄目なら薩摩の士族に蜂起してもらうしかなく、西郷を説得するためだ。
ところが西郷は江藤の要求を突っぱねる。今はまだ時期尚早だ、と。
あきらめの早い江藤は、次は土佐だと、今度も船で四国に向かう。
愛媛の八幡浜あたりから上陸した江藤たちは、徒歩で土佐へ向かう。
(あー、ようやくここまで来た。ここから判子が関わってきます。)
当時、大久保は重要政治犯江藤新平(ついこの間まで司法大臣)を逮捕するため全国に包囲網を敷いていた。
この手配写真制度を始めとする包囲網インフラを作ったのも実は江藤自身だったのだ。
偽名を使ってある宿に泊まろうとすると、主人は「判子」を持ってるかと聞いてきた。
宿の主人にまで、政治犯江藤逃亡の通知が届いていた。彼の手配写真は日本中にばらまかれていた。
見つけ次第、警察に通報だ。
当時、宿に泊まるには判子が必要とされた
偽名を使って宿泊するのだから当然判子なんて持ってるわけない。
実はこの判子がないと宿泊ができないルールを決めたのも江藤本人だったのだ。
江藤はもう終わりかというところまで追い詰められながらも、自分がやった警察網の整備、手配写真制度、判子制度が日本の隅々にまで行き届いているのが分かり、逆に感動したらしい。
まあ、結局彼は土佐に入るも、そこから逃げ切れず、逮捕される。
ここからはもう判子は関係ないですがこの続きが大久保利通がいかに江藤を憎んでいたかが分かるのです。
前代未聞の非公開裁判で
つまり、逮捕された江藤は、通常政治犯であるならば東京に送致されるはずがなぜか佐賀へ移送された。
佐賀城が臨時の裁判所となった。江戸時代から、政治犯には死刑はないとされています。せいぜい島流し。
ところがこの佐賀における非公開裁判で江藤は死刑、梟首(きょうしゅ、さらし首のこと)を宣告される。
この時の裁判長が河野敏鎌(とがま)。
裁判ではかつての上司であった江藤新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。巷では大久保が金千円で敏鎌を買収して江藤を葬ったという風評が立った
(出典:Wikipedia)
つまり、誰も司法卿の江藤新平に死刑を宣告したくないのだが、大久保がこの裁判長の役を引き受けるものには1,000円(現在価値で800万円くらいか)を払うと言ったわけだ。
また非公開裁判で江藤を殺すために、大久保の指令で江藤は東京ではなく、佐賀に移送されたわけだ。
判決が下ったその日の夕方、死刑は行われ、実際、その首は晒され、その写真が全国にばらまかれた。(ググると出てきます。キモいので載せませんが)
この写真は勝手に写真屋がばらまいたものだと大久保は語ったとのことだが、実際、写真屋がそんなことをやる理由も術もなく、全ては大久保が、反政府運動を鎮圧するためにその見せしめとしてやったとされている。
判子ひとつの出来事から江藤新平のエピソードを思い出しました。
江藤新平の話のすべては司馬遼太郎「歳月」(講談社)によるものです。
しかし、江藤の死も悲惨だが、西郷は西南戦争で戦死(自刃か)、大久保は紀尾井町にて暗殺と、明治維新を成功させた革命家のリーダーたちは悲惨な死を遂げています。
こちら↓の大倉喜八郎は、新政府軍に武器を卸していた商人です。
(終)