朝トレ10キロ。今朝も日差しが強いので新町コースに行く。ラーメン。三沢の前を通って北長岡駅前へ。降りてくる乗客がいる。そこからUターン。

この日はほぼ仕事。YouTube本、ガンガン書く。
OJMの音声が完全に1つ間違えてた。ここだけやりなおさんと・・
夜はムービーへ母と行く。歩いて。
今日は私の誕生日なんだわ。まあ無事1年過ごせたことへの感謝。
ビールと日本酒を飲む。
お通し。

淡水魚水槽の横の席を取る。

ポークソテー。まぁまぁ。
母は300グラムのハンバーグステーキ。しかしご飯には手をつけず。なので、私がご飯を全部食べた。

歩いて帰宅。その後早々寝る。深夜に起きてYouTube本の続きを書く。
君側の臣と満州事変への道
昭和初期、日本の政治は政府、軍部、宮中の三つ巴の力関係によって揺れ動いていた。その中でも、天皇の最側近に仕える「君側の臣」たちは、国家の針路に重要な影響を与えていた。彼らは内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣といった役職に就き、天皇の日常的な意思決定や情報収集、拝謁のスケジュールまで管理していた。
その中心にいたのが元老・西園寺公望である。彼は最後の元老として、大正・昭和初期の首相人事に絶大な影響力を持ち、「昭和の総理」を事実上任命する立場にあった。長岡藩出身の西園寺は、幕末の長岡城攻防戦の記憶を内に秘めつつも、自由民権運動や立憲政治の理想を掲げ続けたリベラルな知識人であり、貴族院の重鎮であった。
西園寺の信任を得たのが、内大臣であった牧野伸顕である。牧野は大久保利通の次男であり、まさに明治政府の継承者たる人物であった。内大臣とは、天皇の印章(ハンコ)を管理し、天皇に奏上される公文書に目を通す極めて重い職である。彼は天皇を政治の混乱から守り、陸軍の専横を抑える役割を果たそうとした。
同じく天皇に仕える重要な職に「侍従長」がある。これは天皇のスケジュール管理や日常の拝謁に関わる職で、昭和初期には元海軍大将・鈴木貫太郎が任じられていた。鈴木は温厚な性格で信頼が厚く、226事件では重傷を負いながらも生還した人物である。
一方、侍従武官長は陸軍から出ることが慣例であり、本庄繁中将がこの役職についていた。本庄は天皇の軍事補佐役でありながら、のちに満州事変において陸軍関東軍の暴走を黙認、あるいは黙殺したとして歴史に名を残すことになる。
昭和6年(1931年)、関東軍は満州における支配権の強化を企てていた。参謀本部内には、石原莞爾という型破りな理論家が登場する。石原は「世界最終戦論」に基づき、満州を日本の生命線と位置付け、満蒙を独立国として分離し、日本の衛星国とする構想を抱いていた。
同時に、関東軍高級参謀の板垣征四郎は、行動力と実務能力を持ち合わせた男であり、石原の計画を実行に移す上で欠かせない存在であった。板垣は大の酒好きであり、陸軍本部から派遣された監視役の立川大佐を盛大な酒宴で潰してしまったという逸話も残る。その豪胆さと現地掌握力から「御前様」と呼ばれていた。
石原・板垣ラインは、張学良を中心とした親日政権をつくり、満蒙を実効支配しようと画策していた。だが、これはあくまで陸軍内部の暴走であり、天皇や宮中、政府からの承認を得たものではない。君側の臣たちはこの動きを強く警戒し、天皇にも報告が上がっていた。だが、すでに関東軍は止まらなかった。
昭和6年9月、石原・板垣らは奉天郊外の柳条湖において、南満州鉄道の線路を爆破。これを中国側の仕業と断定し、中国軍への攻撃を開始した。これがいわゆる「柳条湖事件」、すなわち「満州事変」の発端である。事件当夜、奉天に陸路で向かった立川参謀は、現地の空気に呑まれたともいわれている。
この事変は、本庄繁司令官の黙認のもとで拡大されていった。奉天から長春、さらにハルビンへと進軍が続き、中国東北部の主要都市が日本軍によって次々と占領されていった。
マスコミもこの動きを後押しした。新聞・ラジオは連日、戦果を報じ、国民の感情は高揚していった。南満州鉄道副総裁であった松岡洋右は、後にこの地域を「日本の生命線」と称し、満州国建国と国際的承認に奔走することとなる。
また、昭和5年の「中村大尉事件」も大きな影響を与えた。中国側によりスパイ容疑で殺害されたこの事件は、日本国内での中国への敵意を一気に高めた。このようにして、関東軍による謀略は、国民感情とメディアの追い風を受けて正当化されていったのである。
満州事変は、政府・天皇・宮中の意向とは無関係に、現地軍が暴走し、既成事実化するという近代日本の軍部独走の象徴であった。そしてその後の歴史を見れば、この事変こそが、十五年戦争の出発点であったことは疑いようがない。