6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月27日(日) 新潟の夏は茶豆と生ビールがないと始まらない・・・加藤清正は会計官だった

朝トレ10K この日はものすごく涼しかった。曇ってて。
なので走っても全然疲れず。。

東神田2丁目の一通。この先が福住3丁目

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中島中央公園を抜ける
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長岡警察署
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長岡大橋から西方向の空 中央の山が刈羽黒姫山 右手に日赤病院
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大手大橋から東北方面 この雲のおかげで涼しいのだ。
左手遠くに見えるの小高い山は「粟ヶ岳」と呼ばれる三条市と加茂市にまたがる山。
春でも冠雪している時が多い。

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田舎の朝飯。これがいいんだよな。ご飯大盛り
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16時頃仕事一段落でハイボール。
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夕飯はタクで駅ナカの釜蔵へ母と。

茶豆とビール!!新潟の夏必須アイテム

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のっぺ なんだか貧弱すぎるな。鶏肉やかまぼこもいれてほしい。
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このカキフライは最高
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鶏の半身揚げ。ちょっと思ったほど美味しいとは思わなかったな。

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学び

武家政権と日本の会計・貨幣制度の発展

鎌倉幕府と徴税・行政権の侵食

鎌倉時代の成立とともに、日本の政治構造は大きく転換を迎えた。それまで中央の朝廷が掌握していた徴税・行政の権限が、徐々に武家の手へと移っていく。

源頼朝は、全国に守護と地頭を設置し、御家人を派遣することで、土地の実効支配を図った。これにより、朝廷が任命する国司と、幕府が任命する守護・地頭という二重構造が成立する。

特に地頭は、荘園や公領に派遣され、現地の年貢を管理し、軍役にも応じることから、次第に領主化していった。こうして鎌倉時代は、中央集権ではなく、地方の豪族が力を持つ分権的な政治体制が成立していたのである。

この時期の幕府には、朝廷における国司のような会計機構は未整備であり、徴税の監査制度も脆弱であった。ゆえに、地頭の横領や収奪が横行し、荘園制の崩壊を加速させる一因ともなった。

南北朝・室町幕府の構造と財政

南北朝の動乱を経て成立した室町幕府もまた、直轄地の少なさと地方分権の強さに悩まされた。幕府の収入源は、将軍家の領地や課税、日明貿易などであったが、安定した財政基盤を持つとは言い難かった。

応仁の乱(1467年~1477年)の背景にも、この会計制度の脆弱さがある。守護大名たちは幕府の権威を無視し、各自が徴税・軍備・貨幣流通を行う半独立国のような存在になっていた。とくに細川氏や山名氏などは、将軍家を凌ぐ財力を誇り、幕府の権威は急速に低下していった。

また、荘園領主であった貴族や寺社も、帳簿管理(「土荘帳」)を行っていたが、税の取り立ては現地の武士に依存せざるを得ず、その結果、武士層による実効支配が進むことになった。たとえば延暦寺や日吉大社は広大な荘園を抱え、金融業をも展開しており、武家・公家・寺社の間で利権の奪い合いが激化していた。

日明貿易と貨幣経済の発展

室町時代を通じて、中国(明)との貿易が活発化したことも、会計制度と貨幣経済に影響を与えた。足利義満は明と正式な国交を結び、勘合符を用いた日明貿易を開始した。これは形式上は「朝貢貿易」であり、日本側が臣下の礼をとる形をとっていた。つまり日本が明の支配下におかれることを認めたのである。

さらに朝貢貿易においては物品の交換というよりも日本が明の皇帝に捧げ物をする、そのお返しに明から多大な産物を受け取るという形。このお返しが半端なかったわけだ。


しかし、日明貿易は大型船を仕立て、人を雇い金がかかるのだ。室町幕府は次第に窮してきて日明貿易の権利である勘合符を安売りした。

結局、細川氏や大内氏などに分配され、勘合符を持つ者が貿易を行うという形となった。この制度は幕府の財政に貢献する一方で、地方勢力の富の源泉ともなり、将軍家の統制力を削ぐことにもつながった。

明から流入した大量の銅銭は、日本国内の貨幣経済を一気に活性化させた。室町後期には、貨幣による租税納付や取引が一般化し、都市の市場や宿場町では銭貨が主要な決済手段となっていた。



信長・秀吉の度量衡統一と貨幣政策

戦国時代に入り、織田信長や豊臣秀吉が登場すると、貨幣制度と会計制度の整備は飛躍的に進展した。信長は、明からの銅銭輸入が途絶えたことを受け、金銀を用いた貨幣鋳造を行い、また度量衡の統一を進めた。たとえば、枡の単位を「京枡」=「十合升」に統一したことで、全国的な取引や税制において標準化が可能となった。

秀吉は、信長の政策をさらに推し進め、「太閤検地」によって全国の土地台帳と年貢高を明文化。面積を「歩」ではなく「石高」で換算する制度とし、兵農分離・軍役徴発の効率化を実現した。また、金貨・銀貨を鋳造し、国内の貨幣流通に安定をもたらした。これにより、日本はアジアの中でも例外的に、早期に貨幣経済と租税制度が制度化された国家となった。

加藤清正と三成、会計の矛盾

戦国末期の武将たちもまた、会計や軍需に精通していた。たとえば加藤清正は、軍事に長けた猛将でありながら、軍の食料・兵糧・経費を細かく管理する「会計官」でもあった。一方で石田三成もまた、理詰めで動く官僚的な軍司令官として知られた。清正と三成の対立は、単なる政治的対立ではなく、現場型と理論型の会計思想の違いとしても見ることができる。

このように、戦国末期から江戸時代初期にかけて、会計や税務、度量衡の整備、貨幣政策は急速に制度化され、日本国家の近代的な統治基盤の一端を築いていった。