朝トレは肝臓ケアのため休み
母の病院送迎 迎えにいったとき、今日は落ち着いていた
昼飯はスシロー

鶏塩白湯ラーメン、ポタージュのようなスープ、うまし。
夜は本の執筆を進めた。ドラマカーブとボトムからの再起。ここが面白い。
あとは魅力あるCQを提示できるかいなかだ。
長岡滞在もあとわずか・・・
東京に帰ったらスシローにいくチャンスはゼロに近い。
学び 半藤一利 安政の大獄
攘夷の炎に火をつけた天皇の意思──和親条約から桜田門外の変まで
攘夷のきっかけ──孝明天皇の強い意志
幕末の日本が開国か攘夷かで揺れる中、攘夷思想が高まるきっかけの一つとなったのが、第121代天皇・孝明天皇の強い攘夷思想である。孝明天皇は、中国での阿片戦争や西欧列強によるアジア諸国の植民地化を見聞きする中で、外国の侵略に対する強い警戒心を抱いていた。
彼は特に「神州日本の清浄を守る」ことにこだわり、開国や通商に強く反対した。天皇が政治的に強い影響力を持ち始めたのはこの時期からであり、これがやがて「尊王攘夷」思想の核へと成長していく。
和親条約と“聖断”なき決定
1854年、ペリーとの交渉を通じて結ばれた日米和親条約は、下田と函館の開港を含むものであった。しかしこの条約、実は幕府が朝廷の許可(=聖断)を得ずに勝手に締結したものである。
ただし、誤解してはならないのは、「幕府が外交を行う際、朝廷の許可を仰ぐ」という前例は、そもそも鎖国体制下では存在しなかったという点である。鎖国体制の中では、外交権は幕府に一任されていたのが通例であり、条約締結に聖断を必要とするという考え方自体が新しかったのだ。
だが、時代は変わっていた。孝明天皇の強い攘夷姿勢と、開国を進める幕府との間に、大きな溝が生じることとなる。
家定の後継問題と堀田の奔走
将軍・徳川家定が病弱で後継を定めぬまま、死期が迫っていた時期、幕府内では後継者を巡って一橋慶喜(23歳)を推す「一橋派」と、**紀州徳川慶福(のちの家茂)」を推す「南紀派」が対立する。
老中首座・堀田正睦は、一橋慶喜の擁立と同時に、ハリスとの条約締結に際し朝廷の許可を得ようと考え、6万両という巨額の資金を持って京都へ上洛した。公家たちはすでに一橋派・南紀派の双方から賄賂漬けにされており、政治的な中立性は失われていた。
結局、堀田の朝廷工作は失敗し、6万両は空しく消えた。
井伊直弼の台頭と“聖断”の本質
ここに現れたのが彦根藩主・井伊直弼である。彼は老中首座から大老という特別職に任命され、幕府の実権を握る。
井伊直弼は、血筋と格式を重んじ、若年ながら紀州慶福を次期将軍と定める決定を強行した。そして、条約問題に関しても、天皇の“聖断”がないまま、日米修好通商条約に調印するという事実上の独断専行を行った。
当時、井伊は「一期一会」の言葉を最初に書物に残したとも言われる。が、それは茶道の心得というよりも、決断の重要性を重んじた姿勢の表れだったとも解釈できる。
幕府転覆計画──討幕の噂と安政の大獄
やがて京都では、「孝明天皇を中心とする討幕クーデター計画がある」との情報が井伊の耳に入る。実際には、その真偽すら定かではないにもかかわらず、井伊直弼はこれを真に受け、幕政の安定を図る名目で大規模な弾圧に乗り出す。
それが安政の大獄(1858〜1859)である。ここで粛清されたのは、一橋慶喜擁立を主張した人々、攘夷論者、開国慎重派などであり、具体的には吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などが含まれる。
吉田松陰は、幕政改革と尊王攘夷を掲げたが、その思想は危険視された。橋本左内は、福井藩主・松平春嶽の側近であり、若き天才官僚として一橋派を支えていた。彼らの死は、攘夷運動をより過激な方向へ導く結果となった。
歴史を変えたテロ──桜田門外の変
そして1860年、ついに井伊直弼は江戸城桜田門外で暗殺される。水戸浪士らが主導したこの桜田門外の変は、日本近代史における象徴的なテロ行為であり、「政治を動かす暴力」の先駆けとなった。
井伊直弼は、実は居合抜きの達人でもあったとされるが、多勢に無勢の襲撃には対応できなかった。彼の死によって、幕府の強権は失速し、再び政治の混迷が始まる。
日本においてテロが歴史を動かした事例というのは極めて少ない。
あるとすればこの桜田門外と、後年の二・二六事件(1936)か。