6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月19日(土)スシローの中トロ再訪、幕末史

朝トレ、10K  5時出発
信濃川西岸にいき土手を降りて日赤の前を通過中
できる限り日差しを避ける。。

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朝飯
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母を病院に送る

梅干しの日向干し
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母を迎えに行く
今日は落ち着いていた

スシローのマグロ祭り。
中トロ一貫 180円、最高にうまい。
中トロだけを3貫食べたか。
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うに。450円だがちょっと期待外れ
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鳥貝
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帰りの長岡大橋
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書籍執筆をガンガン進める

半藤一利の幕末史を聞き始めた。
昭和史は1本45分から1時間あったのだが幕末史は15分前後と短い。幕末史1−4のまとめを以下に記す

浦賀に現れた異形の艦隊

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる黒船が浦賀沖に姿を現した。旗艦ミシシッピをはじめとする艦隊は、鉄板を貼った木造船に数十門の大砲を備えていた。ミシシッピ以外にも帆船であるプリマス、サラトガなどが並び、日本側に与えた威圧感は計り知れない。

彼らは毎朝9時に艦上から大砲を撃ち、時報を知らせていた。これはまるで、時間すら制御する存在として日本にその力を誇示するかのようだった。

日本にはすでにペリー来航の情報が伝わっており、当時、英語ができた通訳が2名いた。その1人が浦賀奉行与力・中島三郎助である。彼らは、ただならぬ来訪者が現れたことを即座に理解していた。


開国要求の真意と幕府の誤算

ペリーの目的は明確だった。彼は将軍に直接国書を渡すことを主張し、長崎行きを拒んだ。これは単なる通商要求ではなく、明らかに「対等な国家間の交渉」を意識した行動である。日本が欧米列強の標的になることは、もはや避けられない情勢であった。

実際、当時の幕府中枢は、アヘン戦争後の中国や、マカオ・タイといった周辺諸国の植民地化の現実を知っていた。それでもなお、彼らはどこかで「日本には列強は来ないだろう」と高を括っていたのだ。


バナナ運河とブキャナンの驚き

ペリー艦隊の副司令官であるブキャナンに対して、幕府の役人がある問いを投げかけた。「バナナ運河は開通したのか?」——この質問は、のちにブキャナンの記録にも残されている。

当時、バナナ運河(パナマ運河)はまだ構想段階に過ぎなかった。驚いたブキャナンは、心中で「この国は他のアジア諸国とは違う」と感じたという。形式と威厳を重んじ、簡単に心の内を見せない日本人の姿勢もまた、欧米人にとっては謎めいて見えたのだ。


形だけの「沿岸警備」

当時病床にあった将軍家慶には黒船の報告がほとんどあがっていなかった。政権の重責は阿部正弘ら若手に託されたが阿部が報告すると、水戸藩の徳川斉昭に方針をたずねよと。斉昭は、過激な攘夷を唱え「黒船を奪え、夷狄をひとり残らず殺せ」と豪語するが、現実には軍備すら整ってなかった。

黒船襲来を受け、幕府は慌てて全国の大名に沿岸警備を命じた。川越藩、彦根藩、忍藩などがその任に当たったが、実情は悲惨だった。装備も兵士も足りず、武具の価格は高騰。遊郭は暇を持て余し、経済の混乱も起こり始めていた。

さらに、まともな兵士すら揃わないため、幕府は「口利き屋」から浪人たちを集め、警備に投入した。士気も装備も最低限の寄せ集め部隊。これが「国家防衛」の実態だった。


幕府の病巣──「起きたら困ることは、起きないことにしよう」

幕府首脳たちの心には、楽観主義が巣食っていた。具体的な危機管理を避け、「起きたら困ることは、起きないことにしよう」という都合のよい思考が蔓延していたのである。

この精神構造は、約90年後の昭和初期にも再び表れた。関東軍が暴走し、日中戦争が泥沼化した頃、日本の軍部や政府は「ソ連は満州を攻めてこない」と楽観視していた。まさに「歴史は繰り返す」である。

黒船来航という決定的な出来事を前にしても、幕府は軍備の強化や体制改革よりも、問題の先送りに終始した。そしてそれは、やがて政権崩壊という大きな代償を伴って跳ね返ってくる。


結びにかえて

ペリーの来航から始まるこのわずか15年の間に、日本は尊王攘夷の嵐に巻き込まれ、ついには幕府という長き体制が崩壊することとなる。その端緒には、危機に対する備えを欠いた幕府の体質と、状況を読み違えた政治判断が横たわっていた。

「起きたら困ることは、起きないと思いたい」——その心の油断が、国の命運を分けたのである。