6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月17 日(木)スシローのまぐろ祭りのトロ、最強。ソーメン。

朝トレ 10K 5:00出発
まっすぐ西へ。福住、長町を抜け中島中央公園を通過して信濃川土手東岸へ。
ほぼ2Km

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長岡大橋を渡る
雲が出てて涼しい
久しぶりに西岸土手へ
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大手大橋を下り、駅方面の空
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母送迎
Oチャンネルの神戸新開地の微調整と公開設定

最近元気が良すぎて、だいたい迎えにいくと起きてる
スシロー、妹も来る
しかし、開催中のマグロ祭り。大トロと中トロがうますぎる。大トロ一貫360円、中トロ180円。中トロがコスパ最強。これを180円で食べられるってありえんな・・・

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母と妹。妹はエビ味噌ラーメンを母とシェア

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夜はソーメン
ソーメンを食べるのは久しぶりだな。。前回いつ食べたか覚えてない。
モロヘイヤと天ぷら
ソーメンはいくらでも食べられる。4時間前に寿司を食べまくったのに。
だから私は毎日10k走らなくてはいけないわけだ。

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Oチャンネル公開
内容的には自信がなくコメントを見たくもないのだが1日経過してこれを書いている時点で2万再生以上回ってるのでまあまあか。。

江戸無血開城と勝海舟、西郷隆盛

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結された。これにより日本は連合国による占領統治から形式上の独立を果たし、戦後が「本当に」始まったといえる。敗戦から6年。だが、講和によって訪れた独立は、明治の開国と同じく、外圧のもとで国のかたちを変える「強いられた選択」であった。

司馬遼太郎はこうした歴史の転回点を描くことに生涯を費やした。彼は大学こそ出たが、決して正統な歴史教育を受けたわけではない。小学校すらまともに通えず、図書館に入り浸り、独学で歴史の海を泳いだ。だからこそ、彼の歴史観には既存の学説にはない「物語」がある。たとえば、幕末。

幕末は、外からの黒船によって始まった。1853年、ペリーの艦隊が浦賀沖に姿を現す。その大砲の威力、近代的軍艦の圧力に徳川幕府は震え上がった。老中・阿部正弘らが対応にあたったが、決定的だったのは、天皇の意向を無視して開国に傾いたことである。攘夷の機運が高まり、やがて倒幕の声が広がる。

やがて徳川慶喜は大政奉還を行い、形式的には政権を朝廷に返上する。だが、それは将軍職を維持しながら、実質の政権を手放さない「偽りの返上」でもあった。戊辰戦争が勃発すると、慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ、軍を捨てて江戸へと戻る。その船がついたのが浜離宮である。

一方、その頃、氷川の自邸に謹慎していた男がいた。勝海舟である。幕臣でありながら、時代の流れを見極め、すでに「戦わずして負けない道」を模索していた人物である。彼は軍艦奉行から海軍創設に関わる実務官僚へと転身し、やがて西郷隆盛との江戸開城談判に臨むこととなる。

西郷隆盛。彼は討幕の英雄であると同時に、思想的には革命家であり、のちの毛沢東とも似た要素を持っていた。強固な信念と農民的倫理観、そして暴力の正当性。その西郷と勝が対話によって江戸を救ったという一点に、幕末最大の奇跡がある。

勝は、自らの部下である山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)を西郷のもとへと送る。目的はただひとつ。江戸城の無血開城を実現するためである。だが、西軍はすでに「慶喜を備前藩に預けよ」という厳命を発していた。薩摩・長州の新政府軍は、幕府の「大元」を無力化することが最大の目的であった。

一方、江戸の市街地では、江戸焦土化作戦の実行部隊として、新門辰五郎らが動き始めていた。これは新政府軍による報復攻撃と、それに便乗する火付け盗賊の跳梁が懸念されたためである。

そうした中、ついに西郷と勝が会談する。会場は、薩摩藩下屋敷の一角とも伝えられる。そしてこの場で、勝は「焦土にするのは簡単だ。だが江戸の百万人の民を巻き添えにするのか」と問い、西郷はその訴えに応じた。総督府の命令に対して、勝は修正案を提示した。つまり、慶喜は備前ではなく、水戸で謹慎するという「折衷案」である。

西郷はこれを受け入れた。かくして、江戸は戦火から免れ、無血開城という奇跡が実現した。もしこの判断がなければ、江戸は第二の京都になっていたかもしれない。

この「非戦」の選択は、実は日本の歴史において珍しい事例である。多くの時代で、日本は「勝つための戦争」か「仕方ない戦争」しか知らなかった。しかし、勝海舟と西郷隆盛は、理念よりも現実、栄光よりも民衆を重んじたのである。

そして、ここに象徴されるように、日本の近代は、常に「内と外の力」によって動かされてきた。明治の始まりも、昭和の敗戦後も、その本質は「強いられた選択」であった。

昭和26年、サンフランシスコ講和条約を結んだ日本は、明治の開国から百年余を経て、再び「独立国家」として歩み出した。だが、それは真の独立だったのか。あるいは、またもや時代のうねりに押し流された転換点だったのか。

幕末の江戸開城と、昭和の日本独立。二つの時代を貫くのは、「戦わずして滅びず」「選ばざる選択」の歴史である。そしてその歴史の中で、民衆と政治、軍と天皇、外交と暴力は、複雑に絡み合い続けてきた。

歴史は、決して単純な勝者の物語ではない。むしろ、語られなかった選択、引き返せなかった岐路こそが、今日の我々に深い問いを投げかけているのだ。