朝トレ
おそらく7月になって初めての雨か?
折り畳み傘を短パンの後ろポケットに突っ込んで出発。
干場から福住方面

新町三丁目、踏切の近くにある石碑。これ調べたが情報出てこない。
母を送った帰り まだ雨
母を迎えにいき、丸亀へ
鬼おろし肉ぶっかけ
しかしこのうどんが茹で場から出てきたとき、「あれ、肉は?」とおばちゃんに聞いてしまった。。そっか・・・肉やらトッピングはレジの直前でいれるのか・・・まだまだ修行が足りん。
国道8号のバイパス。なんか雲がすごいな。。
YouTube本の執筆再開
夕飯 煮物とナスの味噌炒め、野菜の味噌汁最高
Oチャンネルの新動画について編集者とやりとり。
動画編集者、あまりセンスない感じするが仕事は早い。
一部動画の作成
辛亥革命から柳条湖事件、統帥権干犯問題まで
中国情勢の変化と日本の対応
辛亥革命後の中国は、孫文と蒋介石の合流により国民政府が成立したものの、依然として混乱状態が続いていた。各地に割拠する軍閥の中でも、満州の軍閥である張作霖は特に強大な勢力を誇っていた。日本軍は張作霖を後ろ盾とし、北京政府を作らせることで中国への影響力を維持しようとした。
しかし、やがて張作霖の排除が日本の方針となった。張作霖が国民政府と衝突しがちになったためだ。そうなると国民政府の矛先が満州の日本軍に向けられてしまう。
1928年(昭和3年)6月4日、関東軍の河本大作大佐らによる爆破計画が実行され、張作霖は奉天駅近くで爆殺された。これが柳条湖事件である。
政治的混乱と軍部の暴走
この事件を受け、元老西園寺公望は田中義一総理に対して厳罰に処すよう進言した。しかし、これは陸軍全体の謀略であり、田中義一への責任追及が激化した。牧野伸顕内大臣の仲介もあったが、最終的に天皇が田中を辞職させることとなった。
この一連の経緯により、陸軍は天皇の側近らを恨むようになり、後の二・二六事件へと繋がる怨恨の種子が播かれることになった。
世界恐慌と軍部の台頭
1929年(昭和4年)の株価暴落により世界恐慌が発生すると、海軍は軍縮路線を継続する姿勢を見せた。しかし、統帥権という軍を動かす権利を巡って、統帥権干犯問題が浮上した。北一輝らの思想的影響もあり、軍部の政治的発言力は次第に増大していった。
司馬遼太郎が「魔法の杖」と表現したこの統帥権干犯論は、政府の軍事政策に対する軍部の反発を正当化する理論的根拠となった。こうした中で、海軍内部でも対米英強硬派が台頭し、協調外交からの決別が鮮明になっていった。
この時期を境に、日本は協調外交から独自路線へと舵を切り、やがて第二次世界大戦へと向かう道筋が形成されていくのである。