6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月10日(木)某蕎麦屋のうな重御膳に撃沈、ガダルカナル、ニューギニア、インパール、サイパンで殲滅

今日は母送迎の日。5時に朝トレ出発
早朝は涼しく気持ち良い。長岡大橋をいつものように渡る。

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遠くに弥彦山と角田山が見える。
ということは弥彦からも長岡花火が見えるということか。

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大手大橋。グリーンヒル 長岡ゴルフ倶楽部が見える。
何度か昔いった場所。車の中でガンダーラを歌いながら向かったことをなぜか覚えてる。ここのもつ焼きが美味かった。

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昔のダイエーの前にある椅子でドリンクと休憩。その後ストレッチをして帰宅。
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母を送る、迎えに。この日、母は調子よく休んでいてくれた。

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帰りに小嶋屋総本店のうな重御膳。税込み3900円くらいする。他の高いメニューの倍くらいの値段。

しかし、鰻は・・・orz もう二度と頼まない。スーパーで売ってる鰻とも言えるレベルよ・・ちょっと尻尾のほうは臭みが残ってる感じするし・・タレもきもいし・・
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俄然、本格的な鰻が食べたくなった。ニューオータニの胡蝶の鰻かー。。やはり。。

シェルタリングスカイはほぼほぼとおして弾けるようになったか・・・


学び 半藤一利 昭和史 15

撤退と玉砕の島々――南方戦線の終わりなき敗走


昭和17年(1942年)、日本軍は南太平洋の要衝ガダルカナル島に飛行場建設を開始した。これはラバウルを起点とし、コンパスで半径1000キロの円を描いた先に位置する島であり、ここを拠点とすれば米豪間の海上輸送路を監視・遮断できる位置にあった。日本の戦略としては、ガダルカナルに航空基地を構築することで南太平洋の制空・制海権を確保する構想だった。

しかし、これに対しアメリカは迅速に反応した。昭和17年8月、連合軍はガダルカナル島への上陸作戦を敢行し、建設中の飛行場(後のヘンダーソン飛行場)を占拠した。日本軍はただちに奪還を目指して部隊を派遣したが、制空権を喪失していた状況での兵力投射は困難を極めた。

日本軍の主力である零戦は、航続距離こそ長かったが、ガダルカナルの戦場上空で戦闘行動を取れる時間はわずか10分程度しかなかった。ラバウルから片道800〜1000キロの距離を往復する間に燃料が尽き、十分な戦果を挙げることができなかった。

やがて戦局は明らかに不利となり、昭和18年初頭、日本はついにガダルカナルからの撤退を決定する。これが太平洋戦争の転換点であった。アメリカはこの地でペニシリンなどの新技術を投入し、病死率を下げて戦力を維持したのに対し、日本軍は疫病と飢餓に苦しみながら撤退を余儀なくされた。

その後、日本はニューギニア戦線へと重心を移すが、ここもラバウルから1000キロを超える遠距離であり、兵站線は常に脆弱であった。

同じ頃、カサブランカではルーズベルトとチャーチルが会談し、「日独の無条件降伏以外に戦争終結はない」とする基本方針を確認した。アメリカはすでに昭和18年の段階で日本海軍の暗号を完全に解読しており、日本軍の動向はすべて監視されていた。戦闘機による迎撃も激化し、航空戦力の損失が加速する。

同年、戦局はさらに悪化する。国内では「学徒出陣」が始まり、大学生たちが次々と兵士として徴兵され、戦地へ送られた。

昭和19年(1944年)、日本はインド北東部にあるインパールを目指して大規模な攻勢作戦を展開した。だが、この「インパール作戦」は東條英機内閣の信頼回復と面目のためだけに実施されたとの批判が根強い。無謀な指揮を行ったのは、ビッグマウスで知られる牟田口廉也。支那事変の発端にも関与したとされる人物である。

この作戦は、補給が一切成り立たない中で強行され、英印連合軍に完敗。飢餓と病気による死者が続出し、「日本陸軍最大の愚行」として後に語り継がれる結果となった。

一方、太平洋では連合軍が基地を建設しながら北上を続けていた。アメリカ軍はマッカーサーの指揮のもと、一島一島を確実に奪取し、ついにマリアナ諸島へと迫った。マリアナ諸島、特にサイパンは、日本本土から2,400キロ。ここを奪われれば、アメリカの爆撃機B-29が日本本土を射程に収めることとなる。

昭和19年6月、連合軍はサイパンへ上陸。ここで日本は圧倒的な軍事力差に直面する。制空権を失い、艦隊は壊滅し、日本軍の航空機は次々と撃墜される。この戦いは「マリアナの七面鳥撃ち(Turkey Shoot)」と呼ばれる。訓練不足の若手パイロットたちが、ベテラン搭乗員のアメリカ軍機に一方的に撃ち落とされた。

7月7日、日本軍はサイパンで玉砕。ここに至って、東條英機内閣は責任を取り総辞職する。アメリカのB-29爆撃機が本土に届く距離にまで迫ったことで、日本の敗戦は事実上決定的となった。

この時期から、日本では「特攻隊」が本格的に編成される。海軍の大西瀧治郎中将と陸軍の玉井行人中佐が中心となり、「命令ではなく悲願」として若者たちが命を差し出す体制が整えられていく。のちに大西は敗戦後に自刃し、責任を取った。

昭和19年、日本の軍事費は国家予算の85%を占め、軍事と国家が完全に一体化した戦時体制が極限に達した。だがそれでも、兵器の質・量、燃料、工業力、暗号、戦略すべての面で日本はアメリカに大きく後れを取っており、破局への道は加速するばかりであった。