朝トレ 10K
ちょっと不調。夜、焼酎もほどほどにしないと。
6時出発。信濃川西岸へは橋を渡らず。
東岸をすすむ。

坂之上の飲み屋街を抜ける。

柿川 帝京長岡方面へすすむ
なるほど、昔はこのあたりは完全に田園地帯であったのだろうな。。。
朝7時過ぎの時点でグラウンドにはサッカー部やらなにやら生徒が大勢練習に励んでいた。
Oチャンの音声編集終了
久しぶりにGoogle Earth Studioをいじる。かなり忘れていた・・・
しかしなんとか形にはできた。
夕方母と栖吉川土手を散歩
母の杖が映り込む
学び、半藤一利 昭和史14
開戦と敗北の設計図――真珠湾からミッドウェーへ
昭和16年12月8日、日本はアメリカとの戦争に突入した。だがその直前、日本は重大な国際法違反を犯していた。
戦争を開始する際には、ハーグ条約に基づき、事前に宣戦布告または最後通牒を相手国に通告しなければならない。天皇も、海軍の山本五十六も、このルールは厳守すべきだと考えていた。日本側は対米最後通牒文書を作成し、駐米日本大使館を通じてアメリカ政府に開戦前に通告する段取りを整えていた。
しかし、ワシントンの日本大使館では、館員の怠慢やタイプ作業の遅れが重なり、通告文の手交は予定より1時間以上遅れてしまった。その結果、宣戦布告なきまま真珠湾への空襲が始まり、アメリカ世論は激昂した。事前に暗号を解読していたアメリカ側は、日本の攻撃をある程度予期していたが、「卑怯な奇襲」として国民感情を大きく煽る材料となった。
「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」のスローガンは、後にガダルカナル島の戦場で、士気を鼓舞する言葉として頻繁に叫ばれることになる。
真珠湾攻撃では、日本海軍は空母6隻を基幹とする機動部隊を用いて、航空機353機でハワイの米太平洋艦隊基地を奇襲した。戦艦アリゾナを含む8隻の戦艦が損傷・沈没し、大打撃を与えた。しかし、アメリカの空母は事前に出港しており、最も重要な機動戦力は無傷だった。
この攻撃は山本五十六の構想に基づくものであった。彼の目的は、戦意を喪失させ、講和に持ち込むことであった。あくまで短期決戦による政治的決着が狙いであり、全面戦争の長期化を望んではいなかった。
一方、陸軍はマレー半島に侵攻し、中立国であったタイを通過するという国際法上きわどい作戦を実行した。台湾を拠点にした南方作戦では、フィリピンに駐留するアメリカ軍をも攻撃対象とし、各地で日本軍は連戦連勝を続けた。
12月16日には、戦艦大和が完成し、日本の海軍力は頂点に達したかに見えた。だが、その裏で日本には長期戦に備える戦略が欠落していた。資源、兵站、工業力、すべてにおいてアメリカに劣る日本は、短期決戦に望みを託すしかなかった。
山本五十六は、アメリカの空母機動部隊を壊滅させることを至上命令と考えていた。そして次に構想したのが「ハワイ攻略作戦」と「ミッドウェー島制圧作戦」である。ミッドウェーはハワイと日本の中間に位置し、太平洋の制海権を左右する要衝であった。
昭和17年6月、ミッドウェー海戦が勃発する。だがこの作戦は、アメリカに作戦意図を読まれており、待ち伏せされた日本艦隊は反撃を受ける。日本は4隻の主力空母――赤城、加賀、蒼龍、飛龍――を失い、事実上の航空戦力を壊滅させられた。
この敗北は、真珠湾以来の連戦連勝を打ち破る初の大敗であり、戦局の流れを大きく変える転換点となった。以後、日本は守勢に回り、長期戦を強いられる苦しい状況へと突き進んでいくことになる。