朝トレ、母送迎日なので5時出発
長岡大橋

朝は涼しい。信濃川西岸土手、大手大橋が見える
雲、と大手大橋
母送迎
母の調子悪い
帰り、人生2回目の丸亀へ
ざるうどん(大)とかきあげ
本執筆
Oチャンナレ編集
夜はきんぴらとか煮物とか
ナスの浅漬け
GORAの10年近く前のレビューを読む
学び 半藤一利 昭和13
開戦前夜の決断――「ニイタカヤマノボレ」の裏側で何があったか
天皇の疑念、山本五十六の計算、そしてハル・ノートの衝撃
昭和16年(1941年)、日本は南部仏印への進駐を決定し、東南アジア全域への影響力を拡大しようとしていた。この進出は、英米をはじめとする列強との緊張をさらに高めることとなり、戦争はもはや時間の問題となりつつあった。
インドシナの軍事拠点化は、資源確保の必要に迫られた日本の選択だったが、その進駐はフィリピンを前線基地とするアメリカとの軍事的衝突を現実のものにした。フィリピンはアメリカ領であり、ルソン島の米軍基地は明らかに日本の南進政策への障壁となっていた。
この状況の中で、天皇と杉山元陸軍参謀総長との間で交わされた言葉が象徴的であった。天皇は、「支那事変は一ヶ月で終わると言いながら四年かかっている。南方も三ヶ月で終わるというのか」と強く疑念を示し、開戦への慎重さを滲ませた。
天皇は近衛文麿首相にも外交交渉を続けるよう命じた。しかし、アメリカとの協議はすでに限界に達していた。駐米大使・野村吉三郎は粘り強く交渉を続けたが、アメリカ大統領ルーズベルトは妥協を拒み、交渉は最終的に破綻する。
アメリカは、日本に対して極めて厳しい提案、いわゆる「ハル・ノート」を突きつけた。その中身は、満州からの全面撤退、三国同盟の事実上の放棄、中国からの無条件撤兵など、日本の大陸政策そのものを否定するものであった。
東條英機はこれを受け、「ハル・ノートを受け入れれば、日本は1931年、すなわち満州事変の前まで後退することになる。これまでの10年間の努力は水泡に帰す」と断じた。
近衛文麿はこの時点で政権の継続は不可能と判断し、辞職する。後継として登場したのが東條英機であり、開戦に踏み切る体制がここに確立された。
その裏で、海軍の山本五十六は開戦の準備に着手していた。彼は「米国との戦争は必ず日本を滅ぼす」と内心では考えていたが、一方で「いま、アメリカの海軍力が整う前、すなわち日本の海軍力がアメリカの7割に達しているこの瞬間こそ、戦うなら最後の機会である」と判断していた。
すでにアメリカは大規模な造船計画と航空戦力の拡充を進めており、時間が経つほど日本の勝算は薄れていく。そこで山本は、奇襲によって短期戦に持ち込み、アメリカの戦意を挫き、早期講和に持ち込むという構想に賭けたのである。
こうして昭和16年12月8日、「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)」の暗号が発信された。日本海軍はハワイ・真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。
だがこの時、ドイツはソ連との戦いで膠着状態にあり、英本土も完全には屈服していなかった。日本の外交・軍事戦略は「ドイツの勝利」を前提としていたが、その土台自体が揺らぎ始めていた。
理想や大義を掲げながら、現実から目を背けて国を滅ぼすような道は、避けるべきだった。だが、その教訓は、後の世でようやく語られることとなるのである。