やはり薄くしてくれといっても結構のみ、酒は残る。
起きた瞬間はあれ?元気じゃんと思ってもしばらくすると酒が残ってることに気づく。
朝トレは休み
母を連れてお昼にうどん「もんぺい」さんへ。
日曜営業。客が数組はいってくる。
もんぺいとは屋号の名前のことらしい。つまり意味はない。
ざるうどん
上てんぷらとざるうどん。この天ぷら巨大なエビが3本入っていてめちゃプリプリでうまい。てんぷらはかなりうまいと思った。
ただうどんが讃岐うどんを謳っている割にはほそくて柔らかかった。
これかなりやわらかい。
うーん、再訪はどうなるか・・天ぷらが美味かったので料理自体のクオリティは高いのだ。
帰りに「なじらーて」でスイカ2個
その後ユニクロでオープンシャツを1枚買う。
学び
「全世界を敵に回す覚悟」――昭和十五年、日本の進路を決めた瞬間
昭和15年(1940年)、日本はついに北部仏印に進駐した。フランスはすでにドイツに降伏しており、仏印の統治権は実質的に揺らいでいた。北部仏印進駐は「平和進駐」の名目で行われたが、その狙いは英米による中国国民党への援蒋ルートを遮断することにあった。
一方、南方には石油、ゴム、スズ、タングステンなどがある。これらは英米にとっても貴重な資源なのだ。もし日本が米国から禁輸が発動されるような事態になった場合、これらゴムなどの南方資源を抑えておくことは日本にとって対米カードとして必要不可欠となった。これらを確保しなければ、アメリカによる経済封鎖に耐えることは不可能だった。
この頃、山本五十六は繰り返し「アメリカと戦争をすることは、全世界を敵に回すことになる」と周囲に警告していた。しかし軍中枢では危機感と焦燥が入り混じり、強硬論が支配的だった。
昭和15年7月、アメリカは日米通商航海条約を破棄した。これにより日本経済は資源供給の途絶という現実に直面する。経済封鎖は時間の問題であり、海軍や政府には「南進」か「屈服」かという二者択一の空気が濃くなっていった。
海軍の中枢は薩長閥の強硬派が事実上独占していた。海軍大臣及川古志郎は対米戦への準備を急ぐ方針を打ち出し、「南進こそ国策である」との主張を押し進めた。山本五十六は終始反対の立場を貫いたが、その声は日増しに孤立していった。
表面上は国民の戦意高揚も盛んに演出された。皇紀2600年の節目には、勝鬨橋が祝いの行事に彩られ、大政翼賛会が発足して政党の派閥も解体され、「一億一心」が合言葉になった。だが裏では不安と猜疑が漂っていた。
最後の元老・西園寺公望は、情勢を見極め「日本はこの戦争に必ず負ける」と語り、91歳で世を去った。
昭和16年(1941年)、松岡洋右外相はベルリンを訪問し、ドイツ政府から熱烈な歓迎を受けた。旭日旗がベルリンの駅前を埋め尽くした。松岡はドイツ軍服を「世界で最も美しい」と評し、ヒトラーとの会談でシンガポール攻略を提案された。ヒトラーは英国を屈服させるため、日本に南方進出を強く期待した。
続いて松岡はモスクワに赴き、スターリンと会談した。ここで日ソ中立条約が締結され、日本は北方の脅威を一時的に回避し、南進に一層傾くこととなった。
しかし、陸軍参謀本部は「ドイツが英国を打倒してから決断すればよい」と慎重論を残していた。つまりこの時は陸軍よりも海軍中枢のほうが強硬的だったのだった。
昭和16年6月、ドイツは突如ソ連侵攻を開始した。これを知った松岡は外交方針を転換し、「日本もソ連を攻撃すべきだ」と主張した。松岡はソ連よりもドイツを信頼し、北進論を鮮明にしたが、政府と軍内では南進か北進かで意見が分裂した。
この決定的な岐路をめぐり、御前会議で最終的な国家戦略が論じられることとなった。
こうして日本は、南方資源の確保、英米との対立、独ソ戦争の激化という複雑怪奇な情勢の中で、破局への選択を迫られていったのである。