朝不調
ちょっとウイスキーを飲みすぎたか。。
体にあわなくなったのか。。
Dチャン素材集め
母送迎
帰りはスシローへ
エビ味噌ワンタン麺
マグロの手巻きを巻いてもらって出してもらう
帰宅後、パイソンプログラマーとMTG
18時半から元塾生のTさんと会食
丸天で。
やきとん 絶品なり
カシラとハツ
レバー
坂本龍一のシェルタリングスカイのピアノ譜をDL
夜ずっと弾いてる
朝の学び
2.26事件から日中戦争前夜までの話
2.26で鎮圧された皇道派の残党が日中戦争を引き起こしたか。。
軍部が政治中枢を握る・・・
昭和11年(1936年)、陸軍皇道派青年将校らが引き起こした二・二六事件は、日本の立憲政治の命脈を絶つ重大な分岐点となった。
事件の背景には、昭和恐慌と農村の疲弊、既成政党や財閥への国民の失望、そして統制派と皇道派の陸軍内の激しい対立があった。昭和10年、皇道派の相澤三郎中佐は、統制派の中心人物である永田鉄山を軍務局の執務室で斬殺した。青年将校たちはこの事件に鼓舞され、「相澤に続け」と決起の機運を高めていった。
昭和11年2月26日未明、東京は深い雪に覆われていた。青年将校たちは歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊を動員し、岡田啓介首相官邸をはじめ、政治中枢への襲撃を開始する。
高橋是清大蔵大臣の邸宅では、寝室に押し入った兵士により高橋は布団の上で即座に射殺された。夫を殺された妻・たけは、血に染まる遺体にすがり「せめて顔だけは」と遺体を拭ったが、銃弾で顔も損壊していたといわれる。
牧野伸顕内大臣の邸宅も襲撃を受け、家人が必死に脱出路を確保し、牧野は裏口から逃れた。岡田啓介首相邸では、義弟で秘書官の松尾伝蔵が岡田と間違われて射殺され、夫人の岡田道子は流れ弾に怯えながら必死に息を潜めた。
鈴木貫太郎侍従長の邸宅も襲われ、鈴木は銃撃を受け瀕死の重傷を負った。鈴木の妻・たかは、もともと昭和天皇の乳母であったため、事件の第一報を宮中へ届ける役を自ら果たした。
報を聞いた昭和天皇は直ちに軍服に着替え、「これは単なる内政問題ではない。大元帥たる私が鎮圧する」と明言し、臨時内閣の樹立や軍事政権を認めることを拒否した。
青年将校たちは、荒木貞夫元陸相を首班とする「昭和維新内閣」を樹立し、腐敗した政党政治を排除する計画を立てていたが、天皇の断固たる態度でその目論見は潰えた。
宮城(皇居)を占拠する計画もあった。半蔵門から突入し、近衛歩兵第三連隊をもって皇居を抑える予定だった。しかし半蔵門を守る近衛師団に入場を拒否され、計画は破綻した。
警視庁は約400人の部隊により制圧され、東京の行政機能は一時麻痺した。朝日新聞社や毎日新聞社、電通などの言論機関も攻撃対象にされ、新聞紙上では恐怖と緊張が広がった。
鎮圧にあたったのは陸軍中央の統制派であり、石原莞爾や本庄繁らが首謀者の説得と包囲を進めた。朝日新聞の飛行機が上空からビラを撒き、ラジオも投降を呼びかける放送を繰り返した。
数日後、青年将校らは「天皇陛下の御意思に背けない」として投降を決断する。事件は昭和11年2月29日に終息した。
だが、この決起により皇道派は完全に壊滅した一方で、統制派が陸軍を掌握し、以後の軍部支配を決定づける契機となった。
首謀者らは「7・5裁判」で裁かれ、昭和11年7月12日、代々木練兵場で12名が銃殺刑に処された。
事件後に発足した広田弘毅内閣は、陸軍の圧力で「陸軍大臣現役武官制」を復活させ、軍部の政治支配を事実上公認した。
昭和12年(1937年)、日本は海軍軍縮条約から脱退し、同年7月7日、北京郊外の盧溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)が勃発する。
当時、中国では国民党と共産党の対立が続いていたが、共産党の周恩来らが国共合作を進め、抗日統一戦線が形成された。
蒋介石は西安事件で張学良に監禁されたが、抗日方針に転じることを決断した。盧溝橋では牟田口廉也連隊長が現場で独断攻撃を命じ、局地的事変は全面戦争に拡大した。
この開戦は天皇の裁可を得ない既成事実の積み重ねであり、海軍次官の山本五十六は「陸軍の謀略」と断じた。
日本軍は南京を攻略し、大量虐殺が発生。戦後、東京裁判ではこの行為の責任が問われ、田中隆吉らが証言した。
事変と宣戦布告のない戦争の境界は曖昧で、日本は泥沼の大陸侵略へ突き進むこととなった。