完全に長岡も梅雨明けモードで快晴
10K連日
昨夜の酒を抜くためほぼウォーク
つか日差し強すぎで日陰を縫う
駅前右手奥は昔のイトーヨーカドー丸大
ニューオータニには楽天イーグルスのファームのバス。
アルビレックスと試合があったらしい。
球団を維持するというのは本当に大変。
こういったスポンサーがつかないコストも膨大にかかるんだろうね。
Dチャン投稿作業
ママが送ってくれた風来坊の手羽先、冷凍からの2分チン。
まあまあ合格点か。
シチューぶっかけご飯、蒸しナスとナッパ
これをぶち込んだら即寝た。19-21時まで寝た。
1時半までピアノ練習。
眠剤を久しぶりに半錠飲んで寝た。
学び
国際連盟は満州事変を「侵略行為」と認定し、日本に対し満州からの全面撤兵を勧告する決議を採択した。これに反発した日本政府は昭和8年(1933年)、全権大使の松岡洋右が退席を表明し、正式に国際連盟を脱退する。この脱退は単なる外交の決別ではなく、日本が世界の情報や国際的な協調からも距離を置き、孤立を深める決定的な一歩となった。
以後、国内では軍国主義が急速に強まっていく。新聞やラジオは「世界に屈せぬ自主独立」を喧伝し、世論を煽動した。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥の伝統が影響し、派閥意識が根強く残る中で、陸軍内部でも皇道派と統制派が激しく対立した。皇道派は天皇親政と精神主義を掲げ、対して統制派は近代的な総力戦体制を志向し、永田鉄山や東條英機が中心となった。東條英機が歴史にその顔を覗かせる瞬間。
一方、当時「天皇機関説」をめぐる論争も起きた。美濃部達吉が提唱したこの学説は、国家の最高機関としての天皇の地位を憲法上説明するもので、君主主権を否定するものではなかったが、軍部や右翼から「国体の否定」と攻撃され、学問の自由すら脅かされていった。
こうして国内の言論と政治は軍の支配色を強め、国際社会から孤立しながら、戦争への道を進むことになるのである。