6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

6月28日(土)かっぱ寿司、義弟と飲み、満州事変、上海事変、五・一五事件

朝トレ10K 長岡大橋→大手大橋コース
長岡大橋を西へわたる 曇ってるがこの日はこの後晴れ

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大手大橋を戻る
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母の送迎
古正寺の交差点(迎えに行くとき)
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スシローをみたら60分待ち(25組待ち)とかすごい数字。
結局かっぱ寿司へ
ここは待ち時間0でテーブル席へ
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全然美味しい!サバもマグロも良き
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愛宕の交差点 昔右手にニューラッキーがあった
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Dチャン素材集め台本サムネそして投稿

夕焼け
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夜は義弟と飲みへ。

焼き肉Q まあ、普通だ。
これはタン塩2200円。
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豚ホルモンミックス1000円は安い。
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その後、浪漫へ。湯田上温泉出身のママさん

ここは落ち着くのだな。
竹をくり抜いてつくる竹あかり。

それにしても土曜日の長岡の大手通は若者がめちゃ出てる。

その後、おがわへ
瓶ビールがぬるく、

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餃子もふにゃー。
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野菜スープ300円(コップ冷たい)を飲んで、店を出る。
「次回はラーメン食べてってください」と言われた。
野獣のような店員に・・あんなぬるいビールとまずい餃子出してどの口が言うんだ。

殿町の「柿家」へ。ほぼほぼ満席。
枝豆。600円だが大量でよし
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緑茶割りを飲んでラーメン。
毒じょっぺー。。硬めといったのに柔らかい。
やっぱこの店はだめだな。。もう来ない。
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妹に迎えにきてもらう。


今日の学び。昭和初期における軍部の暴走、半藤一利「昭和史」オーディブル
このあたり本当に苦手なんで。

満州事変前夜、陸軍内部では満蒙の「解放」を掲げた謀略が密かに進行していた。張作霖爆殺事件の余波が冷めやらぬ中、関東軍は南満州鉄道の爆破工作を計画し、事変の口実を作ろうとしていた。吉田茂や若槻礼次郎総理、元老西園寺公望らは、国際社会の反発と日本の孤立を恐れ、こうした強硬策に強く反対した。天皇も不拡大方針を示したが、現地軍は中央の制止を顧みず独断専行を重ねていく。やがてこの陰謀が大きな戦火の発端となる。

満州事変の首謀は陸軍高級官僚、板垣征四郎と石原莞爾であった。板垣は作戦の実行を担う。大酒飲みで御前様と呼ばれる。独断で南満州鉄道爆破を決行した。天皇は不拡大を命じたが無視され、事変は奉天からハルビンへ拡大。昭和恐慌やソ連の進行への恐怖が国民には根強かった。そこに電通がラジオで事変を速報すると国民は熱狂。ラジオ契約者は10万人から60万人急増し、朝日や毎日など新聞各紙もそれまでの論調を一転させ軍部支持を煽った。昭和7年、満州国が樹立された。

新聞各社は、当初は懐疑的だった論調を一転させ、関東軍の行動を「国防」「正義の戦い」と喧伝した。特に毎日新聞(当時の東京日日新聞)は紙面で兵士支援を呼びかけ、慰問袋が1日で15万円(現在の数千万円相当)も寄せられた。

満州を占領した日本に対し、中国では激しい反日感情が噴出し、「日本製品を買うな、日本人を雇うな」というボイコット運動が広がった。国際連盟はこの行為を「侵略戦争」と認定し、1932年にはリットン調査団が現地を調査、日本の主張を否定する報告書を提出した。しかし日本陸軍は「満州人が自発的に中国から独立を望んだ」と強弁し、あくまで関東軍は治安維持に留まるとする建前を貫いた。

同時期、陸軍は上海でも謀略を画策した。昭和7年(1932年)1月、上海で日本僧侶が殺害された事件が起き、関東軍は中国側の仕業と喧伝して武力行使を正当化。これを機に上海事変が勃発し、国際社会の視線が満州から逸れる中、満州国建国を強行した。

満州事変後の政府(犬養毅総理)は国際協調を重視する外交政策を取る。しかしこれを「弱腰外交」とする軍部青年将校の強い不満があった。犬養毅内閣は国際世論を意識し、軍の独断専行を抑えようとしたが、それが逆に「国益を損ねる無能な政権」と映った。昭和恐慌による経済不安、農村の困窮、都市の失業も重なり、国民の不満は高まっていた。海軍青年将校や右翼団体は、腐敗した政財界を倒し、「昭和維新」を断行すべきと考え、武力によるクーデターを決意したのである。

昭和7年5月15日の五・一五事件だ。

この事件では海軍青年将校や陸軍士官学校生らが首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を射殺。「話せば分かる」と言った犬養に対し、青年将校らは「問答無用」と銃を放った。事件後の裁判では首謀者たちに国民から減刑嘆願が相次ぎ、最終的に最高刑でも懲役15年にとどまり、死刑判決は一件も出なかった。司法も世論と軍部に忖度し、軍国主義の風潮が決定的に強まっていったのである。