朝トレ 雨の気配濃厚なのでいつでも河童橋に逃げられる浅草隅田川方面へ。
左手は吉原。右手は東浅草の花園通り。
右手の坂本モータースはいろいろ車のメンテをお願いしている。
ジョグ中、傘をさして歩く女性がなにかをひらりと落とした。。
彼女はそれに気づかない。。
ささっと取り上げるといわゆる折りたたみ傘のカバー。
それを本人に手渡そうと近寄っていったら(その間、こちらが変質者とかに間違われないだろうかと考えながら)・・・本人が気づき、こちらを振り向いた。
これですねー、という感じでさっと手渡した。
すみません、とひとことあったような気がするがイヤホンでオーディブルを聞いていたので分からず。。
言問橋とツリー。
言問橋、いつ見てもかっこいい。
もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
1923年(大正11年)に発生した関東大震災の復興事業として425の橋が建設された。復興局は相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋など115橋、東京市は厩橋、吾妻橋、両国橋など310橋を担当した。復興局が建設した隅田川六橋(言問・駒形・蔵前・清州・永代・相生)は、地形の制約が無い限り、景観を考慮して鋼構造が路面よりも低い上路形式を採用した。
言問橋建設前に橋は無く、渡しがあるだけだった。架けられたのは、両岸から伸びる桁(突桁)が、川の中の2つの橋脚を支点として中央の桁(吊桁)を支持する上路形式のゲルバー橋であり、岩切良助が設計した。総鋼量2,718 t。基礎にはニューマチックケーソン工法が採用された。塗装はオイルペイント上塗の3回塗で色はグレー。1928年(昭和3年)2月10日竣工、総工費1,830,713円。
大川に反映するツリー、区役所、アサヒビール
駒形橋も好き。特にその橋脚がしぶすぎる。
着工:1924年(大正13年)7月
竣工:1927年(昭和2年)6月25日
震災復興事業。それまでは駒形の渡しがあったのみ。
そして一番好きな蔵前橋。この3連アーチのフォルム、しびれるわ。。
関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所である。
着工 - 1924年(大正13年)9月
竣工 - 1927年(昭和2年)11月
と考えると関東大震災がもしなければ、、、これらの橋がかかっていたのか??とも思える。つまり新しい交通インフラは大規模な破壊がきっかけとなることが多いということ。
いや関東大震災の復興事業で作られた交通インフラは
昭和通り(旧・市電専用線)
上野〜銀座〜新橋を南北に貫く幹線。都市交通の骨格の一部。
靖国通り
九段下〜神保町〜新宿方面に続く東西の幹線。
晴海通り
銀座〜築地〜晴海方面を結ぶ幹線。港湾とのアクセス路。
蔵前橋通り
東側の下町と西側をつなぐ新たな動脈。
外堀通り
都心部を環状に結ぶ路線の整備。
日比谷通り
皇居西側を南北に貫通する道路。
などがあるよな・・・地震という大規模破壊を名目に様々な動脈的幹線道路をつくったわけだ。
秋田佐竹藩の藩邸があったことから・・佐竹商店街
明治期には米問屋がここに集積していたそうだ。
東上野コリアンタウン
今は新大久保にもっていかれすっかり寂れてしまった。。コリアンタウンは太平洋戦争後から発達してたそうだ。
で、浅草方面から上野公園へのアプローチをどうしようと考えていたら。そうだ、パンダ橋があった!ここなら直接SS(スクワット、ストレッチ)会場である文化会館前に出られるではないか!!
朝メシ
エアドクターがリコールかかってた。これは個人的初代。
まさにリコール対象だった。
夜はママとチキンへ。
このポテト、260円・・・っておかしくないか。。美味いし。
キーマカレーうどんで締め。
ママが頼んだカレー