6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

6月8日(日)山崎蒸留所と千利休、財閥が絵画を買い漁る理由とは?

朝トレ 10k WS

上野公園

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不忍池
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蓮が成長している
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朝顔
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東京名所之内上野山内一覧之図
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「東京名所之内上野山内一覧之図」明治期で最初の博覧会、第1回勧業博覧会は上野公園で明治10年8月21日から開かれました。開場式にには明治天皇皇后両陛下が臨幸されました。陳列館の外、美術館、機械館、農業館、園芸館の6館に分けられ、入場者は45万人を超えたといわれています。絵図は第1回の勧業博年)のものとされ、上野はこれ以後、明治期日本の国家的行事の開催常用地とや公式行事が繰り広げられていきます。

歌川広重画「東都名所上野東叡山全図」(個人蔵) 上野の山全体が寛永寺の境内であった様子がうかがえる
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朝飯


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ママ送迎 1年以上ぶりに1Fのセブン跡のテナントが決まったようだ
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ブロッコリとカリフラワーうまし。サバ味噌(温めるやつは最悪)
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気分がすぐれずご飯は食べず野菜だけでバタン。。

夜眠れず。。起きて、「あんぱん」3話をキャッチアップ。
NHK朝ドラの裏舞台を描いた100カメが秀逸だった



朝の学び

松花堂弁当のルーツ
松花堂弁当のルーツは、江戸時代初期の僧侶で書家・茶人でもあった松花堂昭乗が用いた、十字に仕切られた箱にあります。彼はこの箱に書道具や薬草などを収めていました。昭和初期、料亭「吉兆」の創業者・湯木貞一がこの箱をヒントに料理用の仕切り弁当を考案し、昭乗の名にちなみ「松花堂弁当」と命名。焼き物や煮物などを四区画に美しく分ける形式は、見た目の美しさと機能性を兼ね備え、現在も和食文化の象徴として親しまれています。

大阪城は一向宗の本山だった。信長が最初に城を築く
聖地。聖地はパワースポットであり場所を変えない

権力は文化を持つと長期持続する。

平清盛は日宋貿易を積極的に進め、博多に「大輪田泊(おおわだのとまり)」という港を整備し、宋からの文物や技術、仏教美術を日本にもたらしました。これにより、宋風の建築様式や書画、陶磁器などが日本文化に影響を与え、公家文化に加えて武家の間にも新たな美意識が広がりました。また、清盛は厳島神社を信仰し、その造営にも宋風を取り入れ、海上交易と信仰が結びついた新しい文化的景観を創出しました。


財閥がオークションで美術品を買い漁るのも、文化を築きたいからだ。長期持続する。金儲けだけに走った財閥はつぶれる。

室町文化は、公家文化と武家文化が融合し、さらに禅宗の影響を強く受けて発展したのが特徴です。将軍足利義満のもとで北山文化が栄え、金閣(鹿苑寺)に代表される豪華で洗練された美が生まれました。続く足利義政の時代には、簡素で深い精神性を重んじる東山文化が興り、銀閣(慈照寺)や枯山水庭園、茶の湯、能、書院造といった日本的美意識が確立されました。町衆文化も発展し、庶民による芸能や美術の担い手が増えていきました。

山崎蒸留所がある山崎は三川合流の場所。

山崎は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水の豊かな地であり、古くから交通と物流の要所として栄えてきました。この地には、名水を求めて多くの茶人が訪れ、中でも千利休は山崎の水を茶の湯に用いたと伝えられています。彼はこの地に庵を結び、侘び茶の精神を深めていきました。現在、山崎蒸留所がこの地に建てられたのも、名水と深い歴史に根ざした選択といえるでしょう。


日本の美術館は倉敷の大原美術館に始まる。

大原美術館は、実業家・大原孫三郎が設立した日本初の西洋美術中心の私立美術館です。その設立のきっかけとなったのが、洋画家・児島虎次郎が欧州で買い付けたクロード・モネの《睡蓮》でした。孫三郎は虎次郎の審美眼を信頼し、モネ作品をはじめとする印象派の絵画を多数収蔵。モネの《睡蓮》は現在も大原美術館の象徴として展示され、日本における西洋美術普及の先駆けとなっています。

大原孫三郎が成功したきっかけは、父・大原儀三郎から継いだ家業「大原財閥」の経営を近代化し、特に倉敷紡績(クラボウ)の改革を断行したことにあります。彼は劣悪な労働環境を改善し、従業員の福利厚生や教育にも力を入れるなど、当時としては革新的な「社会的責任ある資本主義」を実践しました。また、児島虎次郎の芸術支援や美術館設立に代表されるように、文化や教育への投資にも積極的であり、これが企業の信頼と発展につながりました。