ブルボン王朝の公妾制度と貴族社会(ルイ14世~ルイ16世)
王の「公妾」と「愛妾」の違い
ブルボン朝(17~18世紀フランス)の宮廷では、公妾(こうしょう)と呼ばれる公式の愛人制度が存在しました。キリスト教社会では結婚は神聖な秘跡とされ側室を持てなかったため、国王は「公妾」という形で公式に愛人を迎え、生活費や活動費を王室費用から支給していました。公妾は単なる私的な愛人ではなく、宮廷社交界に姿を見せ政治にも影響力を及ぼす存在でした。一方、愛妾(あいしょう)は非公式な愛人を指し、公妾のような公的地位や経済的庇護は受けません。
公妾は王の寵愛を背景に宮廷で大きな発言力を持つことも多く、王妃以上の影響力を発揮する例もありました。とはいえ立場は不安定で、王の子を産んでも嫡出とは認められず、王位継承権はありませんでした。また王妃や他の貴族から嫉視され、失脚する危険も常に伴いました。
当時フランスでは、公妾となる女性は既婚者であることが前提とされていました。未婚の女性が突然宮廷に現れることは品位に欠けるとされていたためです。たとえばルイ15世の公妾ジャンヌ・デュ・バリーは平民出身でしたが、公妾になる前に貴族と形式的に結婚し「夫人」の称号を得ました。こうして「結婚」という形を経て、公妾としての立場を得る仕組みがありました。
ポンパドゥール夫人:宮廷を動かした公式愛人
公妾の中でも特に有名なのが、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人(1721–1764)です。彼女は裕福なブルジョワ出身でしたが、その教養と才気で王の信頼を勝ち得て公妾となり、宮廷内外で大きな影響力を振るいました。
政治に関心の薄いルイ15世に代わって国政にも関与し、オーストリア女帝マリア・テレジアとの間に同盟関係を築いた「外交革命」(1756年)にも貢献したとされます。これによりマリー・アントワネットがルイ16世の妃となる道が開かれたとも言われています。
また、セーヴル磁器工場の後援や劇場・建築分野でも文化的支援を行い、自身のサロンではヴォルテールら啓蒙思想家とも交流しました。
一方で平民出身ゆえに民衆の反感を買うこともありましたが、ルイ15世は彼女を終生重用しました。ポンパドゥール夫人の事例は、公妾が単なる愛人を超えて政治・文化に深く関与したことを象徴しています。
王妃と公妾:結婚と愛情のはざまで
ブルボン朝の王たちは政略結婚による王妃と、公妾をはじめとする愛人たちとの間で役割を分けていました。王妃は国際的な同盟のために選ばれた存在であり、必ずしも愛情があったわけではありませんでした。
例えばルイ14世はスペイン王女マリー・テレーズと結婚しましたが、愛した女性は他にいたとされます。ルイ15世もまたポーランド王女と結婚し子をもうけた一方、王妃が次第に健康を損なうと公妾の存在が大きくなりました。
このように、王妃と公妾は「公の妻」と「私の伴侶」として機能を分担していた面があります。
ヴェルサイユ宮殿の華麗なる生活とその裏側
数千人が暮らした「黄金の檻」
ヴェルサイユ宮殿はルイ14世によって建設され、宮廷がパリから移されたことにより、常時数千人が居住する巨大な宮殿都市となりました。貴族・従者・使用人などを合わせると、日々1万人近くが出入りしていたとされます。
宮殿は壮麗でしたが、内部は常に人であふれ、特に上級貴族でもプライバシーがなく、「黄金の檻」と呼ばれるほどの窮屈な環境でした。
トイレなき宮殿と悪臭問題
ヴェルサイユ宮殿には固定式のトイレはほとんどなく、大多数の人々は携帯用のおまるを使用していました。処理が面倒なため、使用人たちは庭に捨てることも多く、夏場は悪臭が充満していたといいます。
香水の大量使用はこの悪臭を誤魔化すための知恵であり、ハンカチにも香料を染みこませて鼻を覆っていたそうです。貴婦人たちは庭で用を足す際、「お花を摘みに行ってまいります」と言い訳していました。この「花を摘む」が、女性のトイレを意味する婉曲表現の語源になったとも言われています。
「エチケット」の語源
あまりの無秩序に業を煮やした庭師が、芝生や花壇に「立ち入り禁止」や「ここで用を足すな」と書いた立て札を立てました。フランス語でこの立て札を「エチケット(étiquette)」と呼びます。
ルイ14世は貴族たちにこの「エチケットを守れ」と命じたことで、いつしか「エチケット=礼儀・作法」という意味に転じ、現在のマナーの語源になったとされます。
太陽王ルイ14世の歯と食卓:抜歯がもたらしたもの
歯を失った王の悲劇
ルイ14世は晩年、歯の病に悩まされていました。1685年に大臼歯の抜歯を受けたものの傷口が化膿し、医師たちは「万病の元は歯」として、上顎の歯をすべて抜く荒療治に踏み切ります。
これにより、口と鼻がつながってしまい、食べ物や飲み物が鼻から漏れるようになったという逸話もあります。さすがに後に修復されたと考えられていますが、固形物を噛めない状態が続きました。
8時間煮込みの料理
咀嚼が困難になった王のために、料理はすべて極限まで柔らかく調理されるようになりました。ホロホロ鳥やキジなどの肉は8時間以上煮込まれ、骨ごと崩れるほど柔らかくされました。
それでもルイ14世の食欲は旺盛で、スープを何皿も飲み、肉をたいらげ、果物や菓子も好んだと言われています。
しかしこうした食生活は消化不良を招き、王は頻繁にオマルに駆け込んでいたとも伝わります。側近たちは彼の衣服に染みついた臭いに耐えかねて、香水を染みこませたハンカチで鼻を覆っていたそうです。
フィンセント・ファン・ゴッホ:生前の評価と死後の栄光
弟テオの支えとゴッホの最期
ゴッホ(1853–1890)は生前、絵がほとんど売れず、精神的にも不安定でした。唯一の理解者だったのが、弟のテオ・ファン・ゴッホです。テオはパリで画商をしており、兄に毎月送金して支えました。
ゴッホはパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズで生活していた1890年、突然野外で拳銃自殺を図り、2日後に37歳で死亡しました。弟テオはその半年後に病死します。
ヨハンナの尽力と再評価
テオの妻ヨハンナは、義兄フィンセントの作品と書簡を守り抜き、1905年にはアムステルダムで大規模な回顧展を開催。これが転機となり、ゴッホの作品は徐々に高く評価されるようになりました。
1914年にはフィンセントとテオの手紙をまとめて出版し、芸術家としてのゴッホだけでなく、苦悩する人間としてのゴッホ像も世に知られるようになります。
ヘレーネ・クレラー=ミュラーとゴッホ:美術コレクションの夢
ゴッホに魅せられた女性
オランダの富豪夫人ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869–1939)は、1908年に初めてゴッホの作品を購入し、その後の20年間で膨大な数のゴッホ作品を収集しました。
特に《タンギー爺さんの肖像》など、ゴッホの孤独と人間性に深い共感を寄せ、芸術を「精神的体験」として理解する数少ない女性コレクターでした。
美術館の創設と国家への寄贈
世界恐慌によって事業が傾いたクレラー家は、美術コレクションを国家に寄贈し、それが1938年のクレラー=ミュラー美術館の開館へとつながります。
この美術館は現在もオランダ・オッテルローにあり、アムステルダムのゴッホ美術館に次ぐ、世界第二のゴッホコレクションを誇ります。
ミシア・セール:芸術の女神、社交界のミューズ
芸術家のミューズとして
ミシア・セール(1872–1950)はパリの社交界を彩った女性で、ピアニストとしてデビュー後、バレエ団の支援者や芸術家たちのパトロンとして知られます。
ディアギレフ率いるロシア・バレエ団を支援し、ストラヴィンスキー、ピカソ、ジャン・コクトーらのプロジェクトにも資金や人脈面で大きく貢献しました。
ルノワールとの逸話と白紙小切手
ルノワールが彼女の肖像画を描いた際、ミシアは白紙の小切手を差し出して「好きな金額を書いて」と申し出ました。ルノワールは控えめな金額を記入し、ミシアはそれを見て「安すぎる」と笑ったというエピソードがあります。
シャネルとの友情と晩年
ファッションデザイナーのココ・シャネルとは深い友情で結ばれ、ミシアはシャネルの成功を陰で支えました。晩年、モルヒネ依存と失明に苦しんだミシアを、シャネルが支え続けたとも言われています。
ミシアは1950年に78歳で死去。その遺体を最初に見つけたのも、シャネルだったと言われています
朝トレ10K
雨がちなのでアーケードぐるぐるコース
東坂之上から大手通方面
朝飯
今東光の週刊プレイボーイ連載「極道辻説法」より
もう馬鹿野郎とかこん畜生とか暴言の嵐。
しかし、彼は天台宗の最高位、大僧正なのだ。