朝トレ 10K かれこれ20日間連続走っている。まぁゆっくりであるが。
田端の先でUターン。
これは不忍通りかな。
上野に戻ってきて、国立科学博物館、日本館の前の森。
朝飯。
れチャンネルの音声収録と編集。
台本の素材集め。
夜はママとうどんやさんへ。うどん屋と言うよりもうどん居酒屋である。
ただ、ここを喫煙オッケーなので、隣にはサラリーマン10人位の宴会でめちゃタバコ臭かった。
鯖の塩麹焼き。これはいまいち。
刺身。これもいまいち。左側のなんだろうカンパチっぽい魚はまずくて食べられなかった。
いぶりっこチーズ。韓国海苔がついてるが、もはやふにゃふにゃで最悪。
茄子の1本漬け。普通
締めのカレーうどん。これはうまかった。
ママが頼んだごぼう天のうどん。ごぼう天の中につまようじが入っていた。これは最悪怪我する。
朝の学び
クリムトはウイーンの金細工職人の息子だった。
子どもの頃から才能を発揮し14歳まで職工の学校を卒業、立派な職人となった。
その後美術の世界へ。家には住み込みの女性モデルがいた。
わかってるだけで生涯14人の彼女がいた。子どもも。
ただし独身。クリムトの死後、財産分与で女性たちが子供を連れて名乗り出た。
しかし、財産分与はあっけなく終わった。何故かと言えば、クリムトに財産がほとんど残ってなかったからである。要は作品を作るために、常に多額の出費をしていたわけだ。荒俣宏のように文章を書くために、膨大な資料を買うようなものだ。
考えてみれば、大量のアウトプットをするには大量のインプットが必要であると言う事。逆に言えば大量のインプットをしてる時というのは大量のアウトプットをしているものなのである。これが今朝の1番の気づきだ。
オーストリアはヨーロッパにおいて、いわばオスマントルコ帝国の侵略の最前線にあった。城壁で囲まれた都市と言うのは、オーストリアにおいて最も顕著であった。
ピカソは9年のサイクルで女性を変えていった。しかも相手は皆10代から20代。72歳で28歳の女性と付き合ったのが最後。ピカソが死んだ時、かつて付き合った2人の女性が自殺した。ただこれは絶望とかそういうものではない。
ピカソは全く画風が自分とは異なるモディリアニの絵を模写した。逆にボディリアにはピカソの絵を模写した。これは芸術家が全く自分とは異なる異質なものを積極的に受け入れようとしていることの表れである。