朝トレ、
不忍通りを動坂下よりさらに駒込方面に。
Honda Cars東京中央駒込店でUターン
ここまで自宅から2km程度か。
噴水、奥は国立博物館 ここ竹の台広場というらしい。。しかし竹など全く生えてないが・・調べると・・
上野公園の「竹の台広場」の名称は、江戸時代にこの地が「竹の台」と呼ばれていたことに由来します。この名称の背景には、慈覚大師(円仁)が中国の五台山から持ち帰った竹を比叡山に植え、さらにその竹を東叡山寛永寺の地に移植したことが関係しているとされています。この逸話から、竹が植えられた台地として「竹の台」と呼ばれるようになったと伝えられています
朝飯。ベーコン焼いた。
ママを送迎 茅場町交差点
左側のオープンカーは初代ダットサン・フェアレディ。
超々レア
地元、元三島神社の祭りで神輿が家の前を通る。
18時頃の上野線
明るいね。
夜はチキン。
このポテトフライは250円。。
ほうれん草バター炒め
チキンディッカとラムチョップ
チキンディッカマサラ、特辛
今朝の学び
勝新太郎が御簾の裏で三味線を引いて長唄を歌っていた頃。
御簾の向こうでライトを浴びている役者になりたい、なってやると思った。
大映のスター候補生に応募した。
で、役をもらった。撮影所にハイヤーが止まったので俺のかと思って乗り込もうと思ったらスタッフに「お前はあっちだ」とバスを指さされた。
へ?とバスに乗ると、「お前は立ってろ」とシートに座れもできなかった。
そのハイヤーには当時大映の金看板、市川雷蔵が乗り込んでいった。
勝は従来の時代劇の紋切り型のパターンに飽き飽きしていた。
常にすべてが整えられ役者は渡された台本に沿って演じるだけ。
こういうものをぶち壊したかった。
そこで不知火検校を芝居で見て、この映画化権を交渉して取得。
当時大映トップの永田雅一は、こんなゲテモノB級映画、自由に勝に取らせておけと映画化にOKを出した。
ちなみに永田は関東大震災の後、京都の千元組というやくざに籍を置いたこともあった。警察に尾行される日々が続いたという・・・
され、不知火検校は予想に反して大成功。
その後、これまたB級との扱いの「悪名」も大ヒット。
一気に勝がスター候補生からほんもののスターとなった。
当時大映は国際映画祭で賞をとりまくるほど、スタッフが充実していた。
時代劇ブームが沈下し優秀なスタッフたちが暇を持て余していたので彼らが京都撮影所で勝の「B級映画」を作り上げた。大道具、小道具、編集、カメラ、照明。
一流のスタッフによって製作された映画はヒットを飛ばしまくり一気に勝は雷蔵を超える人気を勝ち得たのだ。。
当時大映が取った国際映画賞は
🏆 『羅生門』(1950年、黒澤明監督)※配給は大映
受賞:ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(1951年)
🏆 『雨月物語』(1953年、溝口健二監督)
受賞:ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(1953年)
🏆 『山椒大夫』(1954年、溝口健二監督)
受賞:ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(1954年)
🏆 『地獄門』(1953年、衣笠貞之助監督)
受賞:カンヌ国際映画祭 グランプリ(1954年)
がある。これが大映京都撮影所で撮影されたのだ。
勝はこの文脈に最初はB級映画の主役としてデビューを果たし、一気にスターダムの街道をのぼりつめたわけだ。
そこに座頭市の話が永田のもとへ転がってきた。
これをやらせるなら勝しかいない、となったのだそうだ。。。