霧雨という感じ。防水のシューズを履いて10km JW
雨の天蓋河童橋へ。
わざわざ車で犬を連れて犬の散歩に来る人がいた。
ジョギングしてるおっさんはここに来る度に見るな。
朝飯。煮付けを食べ上げる。
ママ送迎
Dチャン素材集め、投稿
大台に乗った!まあすぐに下がるだろうがうれしい。
日高へ向かう。
鶯谷新坂下
娘も合流。
餃子、なんかいまいち
完全に機械で作ってる。機械の音がうるさいし、なんだかな・・・
肉野菜炒め。これは味薄めをオーダーしたら薄くてよき。
まだいったことはない隣の店
ニラ豚骨。まあ普通か。
今朝の学び。
俊藤浩滋が神戸に生まれてなかったら、ボンノこと菅谷正雄が近所に住んでなかったら、鶴田浩二、高倉健の東映任侠映画は生まれてなかったんだろうな。。
夜間の神戸市立第二神港商業学校を卒業。幼馴染で山口組幹部だった菅谷政雄と親交が深く、太平洋戦争中は徴兵や軍需工場で過ごすが、御影町の五島組の賭場に出入りする中で大野福次郎と出会う。大野は男兄弟9人の家系に育ち、兄弟の多くがヤクザとなる環境で育った。彼は嘉納健治の子分となり五島組を興し、沿岸荷役を独占。戦時中は上海にも進出し、戦後は山口組・本多会と並ぶ神戸の御三家として名を馳せた。俊藤は五島組の興行に関わっていたとされ、「玄人上がり」とも言われた。
1948年、松竹の白井信夫に身受けされていた上羽秀と出会い、同居を開始。彼女が営むバー「おそめ」には文士や映画人が集い、その縁で東映の大川博や岡田茂と関係を深めた。1960年には京都御池に「おそめ会館」を開業。さらに同年、岡田にプロデューサー就任を直談判し、鶴田浩二の引き抜きに成功。東映で鶴田のマネージャー兼プロデューサー見習いとして活動を始めた。
マキノ雅弘ともおそめの縁で知り合い、アシスタントプロデューサーへ。
このあたりが東映任侠映画前史として一番おもしろいところとなる。