6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

5月6日(火)織田有楽斎、数寄屋橋、柳橋が没落した理由などを上野駅構内の蕎麦屋にて考えてみる。

朝トレ
田端というか本駒込Uターン
ここは動坂(左が千駄木、右が駒込)
昔は繁華街として映画館があったり見世物小屋があったりかなり賑わっていたようだ。

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千駄木谷中を抜けて不忍池。
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毎朝、卵納豆なのでちょっと火をいれてみようということでベーコンと卵を焼いた。
めちゃ美味し。

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Dチャン素材集めなど。

17:20に家を出る。鶯谷の風景。京浜東北線で隣の駅、上野へ。

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つまみも酒もそろってる蕎麦屋、いろり庵。上野駅構内(改札内)
ここに来るためにわざわざ電車にのってくるが早ければ10分くらいで来れる(ドアツードア)・・
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お通し(こんにゃく)と生ビール
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酒盗クリームチーズ。これ酒盗少なすぎ!結局塩辛も頼む。
クリームチーズはめちゃ美味い。

鴨ネギ焼き
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日本酒を3杯。
山形の辛口、ばくれんx2 と 紀州和歌山の紀土(きっど)

重ねせいろ
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構内
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帰宅後、すぐ寝る。

今日のオーディブル学び
中谷彰宏、銀座の歴史再読ならず再聴。

銀座というのはもともとなにもなく、明治維新で花街の中心が柳橋から新橋に移ると、その新橋芸者がちょっと甘いものを食べたいということで甘味処が集まる便利なところだった。柳橋は徳川の旗本、江戸留守居役の巣窟だったので、薩長は新橋を贔屓にしていたのだ。で薩長が支配者になると新橋が花街の中心となった。新橋芸者。柳橋は一気に荒廃した。
新橋が東京の玄関口として停車場が作られた背景にもこんな事情があるのだな。
たしか伊藤博文や大隈重信らは築地、東新橋あたりに家があったはず。
また新橋と銀座の間にある見番通り(並木通りと平行に走る1本中央通り寄りの道)の見番はかつてここに新橋花街を仕切る見番が合ったことに由来する。

丸の内は江戸城の前で武家屋敷が密集していたが維新で荒廃した。東京市は二束三文で売却しようとしたが、誰も買い手がつかない。そこで渋々これを引き受けたのが岩崎弥太郎。丸の内の三菱村は岩崎が二束三文で手に入れたところ。

もちろん当時東京駅はなかったので荒廃は進んだだけであったのだが。東京駅ができたのは1914年(大正3年)。政府は日露戦争の勝利で潤沢な資金があったわけだ。そして東京駅が活気を得てくると一気に丸の内の地価は上がっていったとなるわけだ。

結局、回転、つまり天地がひっくり返るということはこういうことなのだ。
それまで価値があったものが無価値となり、無価値だったものが高くなる。

数寄屋橋の数寄屋とは田舎びた建物ということ。ここを信長の弟で、千利休の弟子、織田有楽斎(おだうらくさい)が徳川方につき、徳川の天下になると、現在の有楽町に屋敷を拝領した。そこで有楽町の「有楽」とは織田有楽斎から来てるわけだ。茶人なのでここに数寄屋風の建物をつくって茶室にした。前に外濠川が流れ、橋をつくって、数寄屋橋という橋となった。