6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

4月28日(月)チラシをフライヤーというのはなぜか?そして京都中華のハマムラとの関係とは?

朝トレ、田端方面へ 10K JWS
東北本線に並行して走る貨物線の高架横

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田端大橋に向かう坂道。名称不明。
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ぐるりと回って不忍池
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国立科学博物館 1930年竣工 

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当館は1872年、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源をもつ。創立は1877年に教育博物館が設置されたときとしている。その後、高等師範学校の附属となり、博物館としては活動が停滞していた時期もある。大正時代に科学博物館設立の機運が高まったことを受けて、1930年上野公園内に新館(現在の日本館)が建てられ、その翌年には東京科学博物館と改称され、東京市の施設となった。1949年には国に移管され、現在の国立科学博物館となる。その後、自然教育園や資源科学研究所を組み込んだ。筑波研究学園都市の開発に伴って、筑波実験植物園が附属施設として設置された。これによっておおまかな現在の拠点がそろうことになる。 


朝飯
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13時に歯医者(メンテ)の予約に向かう。飯倉出口を出たところ
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歯医者の歯茎チェック。2023年12月以来の良い数値。
やはり最近ぐっすり眠れてるのが大きいか。

帰宅後、Sチャンの素材集め


チラシのことをフライヤーと言う。
どうしてフライヤーというのだろうか。と前から思っていた。
これが氷解した。Flyer、つまり飛ぶもの、なんです。

もともと戦後、飛行機や気球で戦勝国が敗戦国にビラを撒いたのが始まり。
「日本は負けた。しかし皆さんの命は保証されている。」やサイパンやグアムの森林で撒いた。横田さんや小野田さんはこのフライヤーで日本の敗戦を知ったわけだ。

さらに敗戦国の人々が一番ビックリしたのがその上空からばらまかれる紙の質だ。
そう、敗戦し物資が欠乏すると一番困るのが紙不足なのだ。つまりチリ紙。
チリ紙がないのだ。トイレにいってもお尻をふく紙がないのだ。

ところが空から降ってくる紙。これがめちゃくちゃ上等な紙だった。
これに日本人は一番驚いた。

フライヤーをかき集め、チリ紙代わりに使ったことは想像に難しくないだろう。


そして、このチラシを空から撒く、をやってビジネスを宣伝したのが京都の中華料理店、ハマムラの店主。

https://hamamura-gr.com/special/%e3%83%8f%e3%83%9e%e3%83%a0%e3%83%a9%e3%83%ad%e3%82%b4%e3%81%ae%e5%a4%89%e9%81%b7%e3%81%a8%e6%ad%b4%e5%8f%b2/

フライヤーを辿っていくとこのハマムラにぶつかるわけだ。
1924年(大正13年)、濱村保三が創業。

全くなじみのない中華に京都市民は全く関心を示さない。
そこで飛行機からビラを撒く宣伝方法に至った。

なぜそんなことを考えついたのか。

それはこの濱村さんがもともとサーカス団を率いてヨーロッパを回っていたから。
帝国主義の浸透でフライヤーが戦争で使われてたのを知っていたのであろう。

さらに人の横顔の輪郭にカタカナのハマムラを当てるデザイン。これはロゴデザインを公募して同志社大学の学生が考えたそうだ。

このロゴを印象的なものにするという考えはサーカス巡業時代のポスター製作に端を発するという。。