朝6時起床。寝坊。
ママは会社いかないというのでゆっくり。
朝トレ10K
田端方面へ。常磐貨物線片瀬道(かたせどう)踏切
ここで列車が通過するのは10回に1回くらいか。
片瀬は1932年まで存在した東京市北豊島群日暮里町の旧字名で、近隣の道路の陸橋にもその名を残す(片瀬南陸橋)。
昔、常磐線が田端始発だった頃はこの路線が使われていたはず。
上野始発になってから田端は経由駅になり高架をつくり大きくカーブをする形となった・・と思った(おぼろげな記憶)。しかし常磐線に乗ったことは無し。
谷中の不忍通りと平行で走る路地
左胸から鎖骨にかけての神経痛的な痛みはおよそ2ヶ月で完治。
タオルトレーニングをやめたのが良かったか。
両太子橋
ママと駅前信濃路へ
ニラ玉(硬め)。これ硬めが美味いのだ。
肉野菜味薄め。やや量が減ったかな。。
裏口。警察官が巡回。
最近ずっと朝ジョグ時、オーディブルで中谷彰宏を聞いている。
銀座煉瓦亭は日曜日が定休日。銀座はもともと日曜日は閑散としていたそうだ。その名残。オムライス発祥の店(2つの源流がありもうひとつは大阪の北極星)。もともとは厨房のまかないだったそうだ。コックが片手でフライパンを持ちながらスプーンで食べられるように。で、最初はご飯に卵をまぶしたチャーハンのようなものだったという。
煉瓦亭は千切りキャベツの始祖。これも日露戦争でコックが徴兵されたとき、それまでポークカツレツにつけてた茹でキャベツの代わりに始めたという。。
ちなみに東日本には明治時代、牛がほとんどなかった、◯◯牛は関西に多い。
なので豚をあげた。肉じゃがの肉も関西は牛、関東は豚。
富山の薬売りの話。
もともとは、山岳信仰の聖地、立山修験道の修験者が日本全国に散らばり、御札を民家の神棚に備えて回った。1年後また訪問し御札を取り替える。その時お布施をもらうわけだ。つまり後払い。ちなみに富士山、立山、白山(石川と富山の間)の3山が、日本三名山、または日本三霊山。
これが富山薬売りのルーツ。
薬箱になくなった薬を補充し、使った分だけ後払いというシステム。
なんとそのルーツは立山修験道にあった。
さらにどうして富山が薬の産地なのか・・・
それは朝鮮との密貿易で漢方薬がどんどん入ってきたのだ。
さらに富山藩の殿様は加賀前田家の分家。で、その殿様は身体が弱かった。
家臣らは手に入れた漢方を煎じて殿様に投与したわけだ。
さらに参勤交代で江戸へ出ると、そこは全国から同じく参勤交代で来た大名が集まる。そこで富山の薬を広め、一気に全国区となったわけだ。
参勤交代といのは徳川家にとっては全国の大名の財布を苦しめる元凶ではあるが富山藩にとっては富山の薬を全国の諸藩にマーケティングするというメリットがあったわけだ。
そもそも富山の魚が美味しいのは、富山湾の水深が深いことに起因する。それにより沖でしかとれない魚が湾内にまで入ってくるわけだ。
ではどうして富山湾は深いのか。それは立山からの川が急激な角度で何本も湾に注ぎ込んでるからだ。急流なので遠浅の海ではなく、海の中まで川が流れ込み、砂を削っていくわけだな。
川が急流すぎるのでその周囲に田ができない。なので米の生産には不向き。
当時、米は金なので富山は元来かなり貧乏だったのだった。
だから優秀な富山人はどんどん外に出ていく。正力 松太郎、角川書店をつくった角川 源義・・・
ホテルニューオータニを作った大谷米太郎(1881-1968)も富山の出身。彼は相撲取りだった。力があるので鉄骨製造会社を始めた。で明治維新後、紀尾井町のあたりは、諸藩の屋敷が取り壊され、材木や鉄骨の置き場だった。
で、東京オリンピック、ホテル需要に急いで対応しなくてはならない東京都は紀尾井町の資材置き場にホテルを建造することを計画。しかし誰もやりたがらない。というのもオリンピック開催まであと2年。2年でホテルを建造するなんてとても無理だと思われた。そこで大谷が手をあげた。設計図なんてあってないようなもの。
とにかく組み立てながら考えた。何階建てになるかも不明(汗)
最後は回天展望レストラン。これは戦艦の砲台がモデルだ。砲台は回転しなくてはならず、さらに敵の攻撃にもびくともしない強固なものが求められた。
でできたのが今の本館なんだな。
と、朝ジョグをしながらこれだけの知識を吸収できるわけだ。
・・・とこのように中谷の話はどんどん脱線して、その行く先が果てしなく広がりめちゃくちゃおもしろい。
さてジョグから帰宅後16時近くまで爆睡。笑
夜眠れるのか?
Dチャン素材集めなど。
出前館から日高の野菜ラーメンを注文しようとしたが・・・最悪。
帰ってきた木枯し紋次郎(書籍版)を読了。
ショパンのノクターン48-1の3部を徹底練習。
1時頃部屋を真っ暗にして寝た。
娘が夕飯を作りにきた。。