朝トレなし
母を送迎。帰りに給油。
お昼はあおきやへ!200円分のネギからと言ったら山盛りのネギが!!こんなに食えるか!くらいのレベル。
でもなんだろう、麺はうまいけどスープにもう少し工夫が欲しいか。シンプルすぎる。バナナマンのサインがあった。チャーシューもいまひとつ、、。
仕事。Dちゃん発注、れちゃん発注など。
夕飯は卵とじ丼。煮菜、ナマス
母の調子が悪すぎる。妹も母の部屋へ。今日からは母の部屋で寝ることにした。
案の定、1時過ぎにトイレで起こされその後眠れなくなり4時まで木枯らし紋次郎8巻読む。
最終話の、砕けた波に影一つ、は、熱田神宮と桑名湊を結ぶ七里の渡し、における盗賊による船乗っ取り事件を描いたものだが、素晴らしい。
天保年間の伊勢海の渡し船の数は七十五艘で、そのうち小渡し舟が四十二艘ということになっている。小渡し舟といっても、川の渡し舟みたいに小さいものではない。十五、六人は、乗れる舟であった。
一般の旅人は、乗合船というのに乗る。船賃を払った種々雑多な旅人たちが、一艘の船に乗り合わせるのである。船賃は年々違うが、このときはひとり三十五文だった。乗合船でない場合は、一艘をそっくり買い切るのであった。
大名主従、公務の武士の集団、商人や伊勢参りの団体などは、一艘の船を買い切ることになる。大きい船になると船頭が三人の四十人乗りから、船頭が六人の五十三人乗りというのもあった。
海上七里を走るのに、四時間はかかる。風次第の船なので、所要時間は一定していなかった。早ければ四時間、遅ければ五時間という差がついた。それに乗船や出帆までの時間を加えれば、半日はたっぷりかかってしまうのだった。
五ツ半、午前九時をすぎれば、渡船場はもう旅人でいっぱいである。宮の渡船場は熱田神宮のすぐ近くにあって、突き出しの鳥居が海面に影を落していた。口をゆすげるくらいに澄んだ水が眼前に溢れていて、潮風とともに波が緩やかに寄せている。
ここまで生き生きと七里の渡しの風景を描けるものかと驚愕。
池波正太郎と異なり笹沢左保はエッセイの類をほとんど残してない。そのネタ集め、仕事の進め方などめちゃ気になる!
1930-2002
紋次郎は1971発表なので41歳か。。