6AKA! (ロクアカ)

茅場町で働く社長のブログ

7月15日(火)7月初の雨か。丸亀3回目(もはやプロ)、新動画編集者

朝トレ
おそらく7月になって初めての雨か?
折り畳み傘を短パンの後ろポケットに突っ込んで出発。

干場から福住方面

f:id:academij:20250716112223j:image


新町三丁目、踏切の近くにある石碑。これ調べたが情報出てこない。
f:id:academij:20250716112232j:image

母を送った帰り まだ雨
f:id:academij:20250716112225j:image

母を迎えにいき、丸亀へ
f:id:academij:20250716112239j:image

鬼おろし肉ぶっかけ
f:id:academij:20250716112234j:image

しかしこのうどんが茹で場から出てきたとき、「あれ、肉は?」とおばちゃんに聞いてしまった。。そっか・・・肉やらトッピングはレジの直前でいれるのか・・・まだまだ修行が足りん。


国道8号のバイパス。なんか雲がすごいな。。
f:id:academij:20250716112237j:image

YouTube本の執筆再開


夕飯 煮物とナスの味噌炒め、野菜の味噌汁最高
f:id:academij:20250716112228j:image

 

Oチャンネルの新動画について編集者とやりとり。
動画編集者、あまりセンスない感じするが仕事は早い。

一部動画の作成


辛亥革命から柳条湖事件、統帥権干犯問題まで

中国情勢の変化と日本の対応

辛亥革命後の中国は、孫文と蒋介石の合流により国民政府が成立したものの、依然として混乱状態が続いていた。各地に割拠する軍閥の中でも、満州の軍閥である張作霖は特に強大な勢力を誇っていた。日本軍は張作霖を後ろ盾とし、北京政府を作らせることで中国への影響力を維持しようとした。

しかし、やがて張作霖の排除が日本の方針となった。張作霖が国民政府と衝突しがちになったためだ。そうなると国民政府の矛先が満州の日本軍に向けられてしまう。

1928年(昭和3年)6月4日、関東軍の河本大作大佐らによる爆破計画が実行され、張作霖は奉天駅近くで爆殺された。これが柳条湖事件である。

政治的混乱と軍部の暴走

この事件を受け、元老西園寺公望は田中義一総理に対して厳罰に処すよう進言した。しかし、これは陸軍全体の謀略であり、田中義一への責任追及が激化した。牧野伸顕内大臣の仲介もあったが、最終的に天皇が田中を辞職させることとなった。

この一連の経緯により、陸軍は天皇の側近らを恨むようになり、後の二・二六事件へと繋がる怨恨の種子が播かれることになった。

世界恐慌と軍部の台頭

1929年(昭和4年)の株価暴落により世界恐慌が発生すると、海軍は軍縮路線を継続する姿勢を見せた。しかし、統帥権という軍を動かす権利を巡って、統帥権干犯問題が浮上した。北一輝らの思想的影響もあり、軍部の政治的発言力は次第に増大していった。

司馬遼太郎が「魔法の杖」と表現したこの統帥権干犯論は、政府の軍事政策に対する軍部の反発を正当化する理論的根拠となった。こうした中で、海軍内部でも対米英強硬派が台頭し、協調外交からの決別が鮮明になっていった。

この時期を境に、日本は協調外交から独自路線へと舵を切り、やがて第二次世界大戦へと向かう道筋が形成されていくのである。

7月14日(月)野菜たっぷりの味噌汁、すじこ、明太子、生姜味噌漬けの朝ご飯

朝トレ
朝から日差しが強すぎだろ。
これは信濃川土手にはいけん、ということで新町3丁目Uターンからの大手通コース。

f:id:academij:20250716104357j:image

朝飯。野菜たっぷりの味噌汁がいい。じこ、明太子、生姜味噌漬け
田舎の朝ご飯最高。

f:id:academij:20250716104401j:image

学び 半藤一利 昭和史 18
ChatGPTが落ちたのでcopilotで。しかしちょっと支離滅裂な部分があったのでclaudで。

開国からワシントン軍縮会議までの日本史

開国への転換と国際情勢の変化

慶応元年(1865年)、日本は長年にわたって堅持してきた攘夷政策を諦め、開国へと大きく舵を切った。この時期、アジア各地は西欧列強の植民地と化しており、日本もまた同様の運命を辿る危険性が高まっていた。しかし、西欧列強がアフリカにおける植民地獲得競争に注力していたため、日本には貴重な時間的猶予が与えられていた。

この状況の中で、特にロシアの南下政策は日本にとって深刻な脅威となっていた。ロシアは不凍港の獲得を切望しており、極東地域への進出を活発化させていた。また、1900年(明治33年)に発生した義和団事変では、日本は列強の一員として出兵し、国際社会における地位の向上を図った。これは司馬遼太郎の『坂の上の雲』が描く時代、すなわち日本が近代国家として「坂の上の雲」を目指して駆け上がった時期に相当する。

防御から拡張への政策転換

日本の対外政策は、当初の防御的姿勢から次第に拡張的なものへと変化していった。明治維新から40年間で近代国家を建設し、その後の40年間で破滅への道を歩み、敗戦に至った。そして戦後復興から40年を経てバブル崩壊に直面するという、40年周期の歴史的パターンが見て取れる。

日露戦争の勝利により、日本は満州における権益を獲得した。南満州鉄道の経営権と関東州の租借権を得た日本は、鉄道守備のための軍隊を駐留させ、営業権と居住権を確保した。これらの権益は日本の国防最前線と位置づけられ、当初1万人程度であった駐留軍は、最終的に70万人規模まで拡大することになった。

満州政策の展開と朝鮮併合

100万人の日本人が満州に移住し、この地域は日本の生命線と見なされるようになった。しかし皮肉なことに、満州には石油資源が存在しなかった。明治43年(1910年)には朝鮮併合が実現し、日本の大陸政策は新たな段階に入った。

満州は清朝発祥の地であり、中国人にとって特別な意味を持つ土地であった。魯迅、孫文、蒋介石といった中国の知識人たちは、当初日本に留学し、近代化のモデルとして日本を尊敬していた。しかし、日本の大陸進出が本格化するにつれて、この関係は悪化していくことになる。

清朝の衰退と中華民国の成立

清朝が衰退した要因の一つは、各地に割拠する軍閥の存在であった。中央政府の統制が利かず、国家としての統一性を欠いていたことが、列強の侵入を容易にしていた。1911年(明治44年)の辛亥革命により清朝は倒れ、翌年中華民国が成立した。

その後、国民政府軍が各地の軍閥を討伐する北伐を実施し、蒋介石が北京を占領して中国統一を図った。この過程で反日運動が激化し、日中関係は急速に悪化していった。

第一次世界大戦と日本の対応

第一次世界大戦では、ドイツを相手に英仏ロシアが戦うという構図が展開された。日本はドイツに宣戦布告し、太平洋上のドイツ領マーシャル諸島を占領した。また、中国に対しては「対華21ヶ条の要求」を突きつけ、満州における権益の拡大を図った。

しかし、この強硬な姿勢は中国国内の反日感情を一層高めることとなった。芥川龍之介の中国訪問レポートにも、この時期の反日運動の激化が記録されている。日本の視線は満州に集中し、中国本土での影響力拡大に腐心していた。

ワシントン軍縮会議と日英同盟の終焉

第一次世界大戦後の1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて、ワシントン軍縮会議が開催された。この会議では、主力艦の保有比率がアメリカ5:イギリス5:日本3の割合で決定された。日本代表団を率いた加藤友三郎海軍大臣は、この条約の締結に尽力した。

この会議でアメリカは、日英同盟の解消を強く求めた。1902年(明治35年)以来、日本の外交政策の基軸となってきた日英同盟は、昭和9年(1934年)に正式に破棄されることとなった。これにより、日本は国際的に孤立する道を歩み始めることになる。

ワシントン軍縮会議は、日本の対外政策における一つの転換点となった。軍備拡張競争から軍縮協調へと方向転換を図ったものの、結果的には日本の国際的地位の相対的低下を招くことになった。この時期を境に、日本は協調外交から独自路線へと舵を切り、やがて第二次世界大戦へと向かう道筋が形成されていくのである。



7月13日(日)小嶋屋本店(長岡駅ビル内)、ミニ冷蔵庫大活躍

今日は朝トレはお休み。
7時頃まで寝てた。

それでも軽く朝飯

お昼に母と長岡駅の小嶋屋へ。
本店はお店広いが駐車場が狭いのでこちらのほうが確実。
ただ12:10というランチタイムど真ん中。2組待ち。15分くらい待たされた。

f:id:academij:20250714104454j:image

しかし2人なのに運が良いことに4人がけの席に。
ゼンマイ煮 これで750円くらいする。
さすがにこれは高すぎるかなと。
f:id:academij:20250714104510j:image

ニシン煮 漢字では鰊 これは定番だわね。
f:id:academij:20250714104512j:image


天へぎ 2400円
f:id:academij:20250714104500j:image
f:id:academij:20250714104507j:image

海老天ぶっかけそば 母が注文 完食
f:id:academij:20250714104457j:image

駐車場割引券をもらう。これを機械でスキャンすると2時間無料になるのだ!これはうれしい。

帰りに合図不履行で発進するトラックと青信号で突然停止するスズキ・イグニス。どちらもYouTube行き。

しかしこのツインバードのミニ冷蔵庫買ってよかった!!
めちゃ便利。奥には日本酒が・・・

20L。やはりこのサイズにして良かった。13Lだったら2本しか入らずだった。

f:id:academij:20250714110832j:image

全く無音というのが良い。夏はこれなしでは生活できんかった。よくこれまでの夏、乗り越えたもんだ。


学び 半藤一利 昭和史17
終戦への聖断――原爆・ソ連参戦・御前会議

1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された。アメリカ軍B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって投下されたこの爆弾「リトルボーイ」は、爆心地において摂氏3,000度を超える高温を生み出し、一瞬にして数万人の命を奪った。市街地は壊滅し、生き残った者の中にも焼けただれた身体でさまよう者が続出した。


この爆撃の報を受け、ソ連のヨシフ・スターリンは狂喜したとされる。彼はアメリカが原爆を保有したことを確認するとともに、自国でも原爆開発を急がせ、後の冷戦構造へとつながっていく。また、広島への原爆投下は、ソ連の対日参戦を促す動機ともなった。


8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州への侵攻を開始した。これにより、日本が望んでいた「ソ連を通じた和平仲介」という最後の希望は完全に絶たれた。和平の仲介役を期待していたソ連は、現実には領土拡張を目指していたのである。


同日、長崎にも原子爆弾「ファットマン」が投下された。もし日本政府がポツダム宣言を速やかに受諾していれば、長崎への原爆投下は回避できた可能性もあるといわれている。

連日の悲劇に、日本の鈴木貫太郎首相は「もはやこれまで」と述べ、政府はついにポツダム宣言の受け入れを決断した。ただし、受け入れにあたっては1点の要望が出された。それは、「天皇の国体と地位の維持」であった。戦争指導者たちは、これだけは譲れぬ一線と考えていた。

ポツダム宣言受諾に向けて開かれた最高戦争指導会議では意見が大きく割れ、会議は紛糾した。陸軍強硬派は徹底抗戦を主張し、一部ではクーデター計画の兆しも見え始めていた。

8月14日深夜23時、最高戦争指導会議および閣僚を集めた御前会議が開かれる。ここで天皇自らが、「このままでは日本民族が滅亡する」と述べ、ポツダム宣言受諾を決定した。天皇の聖断により、軍・政府・司令部のトップが一堂に会したこの歴史的会議において、ついに日本の降伏が正式に決定された。

7月12日(土)長岡生姜醤油ラーメン、これは美味いのかもしれない!!味の弦楽四重奏か・・・

5時に朝トレ出発。母の送迎日。
やはりこの時間帯は涼しい!

長岡大橋から大手大橋方面

f:id:academij:20250713172554j:image

5:20でこれだけの人が歩いている。6:30すぎるとめちゃ暑くなるからみなさん分かってるんだなー。。

f:id:academij:20250713172533j:image

雲の切れ目から光が降り注ぐ
f:id:academij:20250713172529j:image

6:27の長岡駅構内。ひとは まばら
f:id:academij:20250713172536j:image


信濃川が減水しているのと相反して、福島江は増水か。
f:id:academij:20250713172551j:image

土曜日、母迎えにいくときの愛宕アンダーパス
この時間帯めちゃ混んでる(12:40) 右に見えるシビックタイプRとは喜多町まで一緒だった。ラーメンあおきやに入っていった。

f:id:academij:20250713172557j:image


母とは帰路、土曜日高齢待ち時間なしのかっぱ寿司へいこうとおもったがスシローが空いてたのでスシローへ。中トロにぎりが美味かった。


帰宅後Oチャンネルの動画編集者とZOOMなどして発注。

19時過ぎに義弟と飲みに出る。
長岡藩。
今日はおかみさん、機嫌良い。
ただあとから入ってきた客がトイレへ向かうところの暖簾をひっかけて落としてしまってから機嫌悪くなる。

もろきゅー
f:id:academij:20250713172548j:image

焼き鳥。いつもながらうまい!

f:id:academij:20250713172544j:image

その後、アメジストへ。しかし混んでるのでFaceという全く何屋か分からない見せに凸。カウンターで飲んでたおじさんと長岡の歴史話で盛り上がった。こういうのがいいんだよね。。彼はDVDを「円盤」と言っていた。

アメジストへ戻り、あかねさんと初対面。
義弟はウインブルドン女子シングルス決勝があるので帰る。

しばしアメジストで飲んでから浪漫へ移動。
ママにChatGPTの使い方を指南した。

最後腹が減った。ということで駅前の一平。

f:id:academij:20250713172541j:image


ここは前きたときめちゃまずかったのだが今回のこの生姜醤油はうまかった。
もしかしてこれはかなり美味いのではないか(とうちゃんラーメンを思い出す)と泥酔に近い頭の中で考えた。もしかしたら気のせいかもしれぬ。。

口中にスープを含む。ほお・・・とうちゃんが味のオーケストラだとしたら、これ弦楽四重奏くらまでは到達している気がする。しかもしょっぱいのだ。しょっぱいけどコクがあるのでなぜか飲めるのだ。。

もう一度検証せねばならぬな・・・でも酔っ払ってるのだろうな。。


帰宅後爆睡。

7月11日(金)山本五十六の墓、長岡花火発射台を確認、キーマカレー、ポツダムを受諾していれば原爆投下はなかったのか

朝トレ 10k

幼少期に育った福住3丁目。ここに家と祖父の会社があったんだな。

f:id:academij:20250712081003j:image

墓参。あとで気づいたが今日は父の誕生日だった。
同じ寺に山本五十六の墓も。山本帯刀と並んでいた。
f:id:academij:20250712080952j:image
f:id:academij:20250712080937j:image

大手大橋の下に長生橋が見える
f:id:academij:20250712080959j:image
f:id:academij:20250712080956j:image

打ち上げ台だろうか。長岡花火までもう少し。
f:id:academij:20250712080947j:image

信濃川の水位が低い。屋形船の船着き場。
f:id:academij:20250712080949j:image

 

長生橋とフェニックス大橋
f:id:academij:20250712081006j:image

朝飯 田舎飯、これがうまいのだ。生卵と納豆(沈んでいる)f:id:academij:20250712080944j:image


久しぶりに動画編集の外注を探すために募集かけた。

甥っ子のI君作のキーマカレー
f:id:academij:20250712080941j:image

めちゃ美味かった
f:id:academij:20250712080935j:image


バッハの主よ。人の望みよ・・を練習。これ意外と難しい。
旋律を他の指が打鍵していると同時に、人差し指や中指で響かせなくてはならないところが途中出てくる。これどうやるんだよ!!

しかしまずは譜読み優先ということで全体をさらりと弾けるように方針転換。


学び 半藤一利「昭和史」
間に合わなかった降伏――昭和20年、破局への選択

昭和20年、日本本土は空襲と飢餓に覆われていた。生活物資はすべて配給制となり、新聞紙上には配給日と品目が掲載された。だが、その量は到底生活を維持できる水準ではなく、4人家族に対してイワシ2匹、タバコ6本というような配給にすぎなかった。市民はやむを得ず闇市に頼り、そこで手に入る物資は政府の統制を離れて高騰した。

一方、戦争の終結に向けて、近衛文麿、吉田茂ら一部の政治家たちは水面下で終戦の方法を検討していた。そんな中、昭和20年2月、ヤルタ会談が開催された。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3首脳が集まり、ヨーロッパ戦後秩序を決定するとともに、アメリカはソ連に対して対日参戦を依頼した。スターリンは、日露戦争で失った権益(南樺太・千島列島・満州の鉄道利権など)の回復を条件に、ドイツ降伏の3か月後に対日参戦することを約束した。

この動きに日本政府は気づいておらず、依然として「ソ連を通じた和平仲介」の希望を捨てていなかった。これは致命的な誤算であった。

その間、太平洋では硫黄島をめぐる激戦が繰り広げられていた。硫黄島は小笠原諸島に位置し、グアムやサイパンと日本本土をつなぐ中間地点にあり、アメリカ軍にとっては戦闘機の護衛・爆撃機の中継基地として不可欠な戦略拠点であった。日本軍約21,000人に対して、アメリカは約75,000人の大軍を投入。日本側の死者は20,000人以上にのぼり、島は焦土と化した。

3月には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人以上が犠牲となる都市型無差別爆撃が始まった。そして4月1日には沖縄本島への上陸作戦が開始される。日本政府は本土決戦に備える構えを見せていたが、実際には備えは不十分であり、戦力も装備も圧倒的に不足していた。

4月7日、日本海軍の象徴であった戦艦「大和」が、片道燃料で沖縄へ出撃。だが米空母艦載機の波状攻撃により撃沈され、海軍の象徴は海底に沈んだ。

同じ月、世界では歴史が大きく動いた。ムッソリーニが処刑され、ヒトラーが自殺。ドイツは無条件降伏を受け入れ、戦争はヨーロッパで終結した。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否し、参戦の準備を進めていた。日本は、ソ連が対米英戦の仲介役となることを期待し、外交ルートを探っていたが、すでにソ連は「日本への裏切り」を決めていた。

7月16日、アメリカはニューメキシコ州で原爆実験「トリニティ」を成功させた。実はアメリカは1943年(昭和18年)5月の段階で、原爆投下の標的を日本のみと絞っていた。米国にはドイツからの移民も多かったからか。

7月にはポツダム会談が開かれ、アメリカの新大統領トルーマンがスターリン、チャーチル(後にアトリー)と共に、ドイツ処理と対日終戦に向けた最終方針を協議した。アメリカは「ソ連の参戦前に日本を降伏させる」方針を取り、ポツダム宣言を発表。日本に無条件降伏を要求した。

だが日本政府内では、ポツダム宣言の受け入れをめぐって意見が割れた。外務省はソ連との関係を損ねることを恐れて宣言受諾に慎重だった。メディアは「断固戦え」と煽り、陸軍も宣言に強く反発した。

首相の鈴木貫太郎は記者団に対し「ノーコメント」と述べたが、これが日本はポツダム宣言を「拒否した」と海外報道されることとなり、アメリカは原爆投下を最終決断する。

そして8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下する。投下命令はすでに出されており、投下地点は目視で確認できる都市として広島、小倉、新潟、長崎の4都市が候補に挙げられていた。もし日本がポツダム宣言を早期に受諾していれば、広島・長崎の悲劇は避けられたかもしれない。しかし、その決断はついに間に合わなかった。


7月10日(木)某蕎麦屋のうな重御膳に撃沈、ガダルカナル、ニューギニア、インパール、サイパンで殲滅

今日は母送迎の日。5時に朝トレ出発
早朝は涼しく気持ち良い。長岡大橋をいつものように渡る。

f:id:academij:20250711122224j:image

遠くに弥彦山と角田山が見える。
ということは弥彦からも長岡花火が見えるということか。

f:id:academij:20250711122233j:image

大手大橋。グリーンヒル 長岡ゴルフ倶楽部が見える。
何度か昔いった場所。車の中でガンダーラを歌いながら向かったことをなぜか覚えてる。ここのもつ焼きが美味かった。

f:id:academij:20250711122228j:image

昔のダイエーの前にある椅子でドリンクと休憩。その後ストレッチをして帰宅。
f:id:academij:20250711122230j:image

母を送る、迎えに。この日、母は調子よく休んでいてくれた。

f:id:academij:20250711122239j:image

帰りに小嶋屋総本店のうな重御膳。税込み3900円くらいする。他の高いメニューの倍くらいの値段。

しかし、鰻は・・・orz もう二度と頼まない。スーパーで売ってる鰻とも言えるレベルよ・・ちょっと尻尾のほうは臭みが残ってる感じするし・・タレもきもいし・・
f:id:academij:20250711122237j:image

俄然、本格的な鰻が食べたくなった。ニューオータニの胡蝶の鰻かー。。やはり。。

シェルタリングスカイはほぼほぼとおして弾けるようになったか・・・


学び 半藤一利 昭和史 15

撤退と玉砕の島々――南方戦線の終わりなき敗走


昭和17年(1942年)、日本軍は南太平洋の要衝ガダルカナル島に飛行場建設を開始した。これはラバウルを起点とし、コンパスで半径1000キロの円を描いた先に位置する島であり、ここを拠点とすれば米豪間の海上輸送路を監視・遮断できる位置にあった。日本の戦略としては、ガダルカナルに航空基地を構築することで南太平洋の制空・制海権を確保する構想だった。

しかし、これに対しアメリカは迅速に反応した。昭和17年8月、連合軍はガダルカナル島への上陸作戦を敢行し、建設中の飛行場(後のヘンダーソン飛行場)を占拠した。日本軍はただちに奪還を目指して部隊を派遣したが、制空権を喪失していた状況での兵力投射は困難を極めた。

日本軍の主力である零戦は、航続距離こそ長かったが、ガダルカナルの戦場上空で戦闘行動を取れる時間はわずか10分程度しかなかった。ラバウルから片道800〜1000キロの距離を往復する間に燃料が尽き、十分な戦果を挙げることができなかった。

やがて戦局は明らかに不利となり、昭和18年初頭、日本はついにガダルカナルからの撤退を決定する。これが太平洋戦争の転換点であった。アメリカはこの地でペニシリンなどの新技術を投入し、病死率を下げて戦力を維持したのに対し、日本軍は疫病と飢餓に苦しみながら撤退を余儀なくされた。

その後、日本はニューギニア戦線へと重心を移すが、ここもラバウルから1000キロを超える遠距離であり、兵站線は常に脆弱であった。

同じ頃、カサブランカではルーズベルトとチャーチルが会談し、「日独の無条件降伏以外に戦争終結はない」とする基本方針を確認した。アメリカはすでに昭和18年の段階で日本海軍の暗号を完全に解読しており、日本軍の動向はすべて監視されていた。戦闘機による迎撃も激化し、航空戦力の損失が加速する。

同年、戦局はさらに悪化する。国内では「学徒出陣」が始まり、大学生たちが次々と兵士として徴兵され、戦地へ送られた。

昭和19年(1944年)、日本はインド北東部にあるインパールを目指して大規模な攻勢作戦を展開した。だが、この「インパール作戦」は東條英機内閣の信頼回復と面目のためだけに実施されたとの批判が根強い。無謀な指揮を行ったのは、ビッグマウスで知られる牟田口廉也。支那事変の発端にも関与したとされる人物である。

この作戦は、補給が一切成り立たない中で強行され、英印連合軍に完敗。飢餓と病気による死者が続出し、「日本陸軍最大の愚行」として後に語り継がれる結果となった。

一方、太平洋では連合軍が基地を建設しながら北上を続けていた。アメリカ軍はマッカーサーの指揮のもと、一島一島を確実に奪取し、ついにマリアナ諸島へと迫った。マリアナ諸島、特にサイパンは、日本本土から2,400キロ。ここを奪われれば、アメリカの爆撃機B-29が日本本土を射程に収めることとなる。

昭和19年6月、連合軍はサイパンへ上陸。ここで日本は圧倒的な軍事力差に直面する。制空権を失い、艦隊は壊滅し、日本軍の航空機は次々と撃墜される。この戦いは「マリアナの七面鳥撃ち(Turkey Shoot)」と呼ばれる。訓練不足の若手パイロットたちが、ベテラン搭乗員のアメリカ軍機に一方的に撃ち落とされた。

7月7日、日本軍はサイパンで玉砕。ここに至って、東條英機内閣は責任を取り総辞職する。アメリカのB-29爆撃機が本土に届く距離にまで迫ったことで、日本の敗戦は事実上決定的となった。

この時期から、日本では「特攻隊」が本格的に編成される。海軍の大西瀧治郎中将と陸軍の玉井行人中佐が中心となり、「命令ではなく悲願」として若者たちが命を差し出す体制が整えられていく。のちに大西は敗戦後に自刃し、責任を取った。

昭和19年、日本の軍事費は国家予算の85%を占め、軍事と国家が完全に一体化した戦時体制が極限に達した。だがそれでも、兵器の質・量、燃料、工業力、暗号、戦略すべての面で日本はアメリカに大きく後れを取っており、破局への道は加速するばかりであった。


7月9日(水)信濃川→帝京長岡コース 真珠湾、ミッドウェー海戦など

朝トレ 10K
ちょっと不調。夜、焼酎もほどほどにしないと。

6時出発。信濃川西岸へは橋を渡らず。
東岸をすすむ。

f:id:academij:20250710095023j:image

坂之上の飲み屋街を抜ける。
f:id:academij:20250710095020j:image
f:id:academij:20250710095030j:image

 

柿川 帝京長岡方面へすすむ
f:id:academij:20250710095034j:image

なるほど、昔はこのあたりは完全に田園地帯であったのだろうな。。。
朝7時過ぎの時点でグラウンドにはサッカー部やらなにやら生徒が大勢練習に励んでいた。
f:id:academij:20250710095026j:image

Oチャンの音声編集終了
久しぶりにGoogle Earth Studioをいじる。かなり忘れていた・・・
しかしなんとか形にはできた。

夕方母と栖吉川土手を散歩
母の杖が映り込む
f:id:academij:20250710095037j:image



学び、半藤一利 昭和史14
開戦と敗北の設計図――真珠湾からミッドウェーへ

昭和16年12月8日、日本はアメリカとの戦争に突入した。だがその直前、日本は重大な国際法違反を犯していた。

戦争を開始する際には、ハーグ条約に基づき、事前に宣戦布告または最後通牒を相手国に通告しなければならない。天皇も、海軍の山本五十六も、このルールは厳守すべきだと考えていた。日本側は対米最後通牒文書を作成し、駐米日本大使館を通じてアメリカ政府に開戦前に通告する段取りを整えていた。

しかし、ワシントンの日本大使館では、館員の怠慢やタイプ作業の遅れが重なり、通告文の手交は予定より1時間以上遅れてしまった。その結果、宣戦布告なきまま真珠湾への空襲が始まり、アメリカ世論は激昂した。事前に暗号を解読していたアメリカ側は、日本の攻撃をある程度予期していたが、「卑怯な奇襲」として国民感情を大きく煽る材料となった。

「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」のスローガンは、後にガダルカナル島の戦場で、士気を鼓舞する言葉として頻繁に叫ばれることになる。

真珠湾攻撃では、日本海軍は空母6隻を基幹とする機動部隊を用いて、航空機353機でハワイの米太平洋艦隊基地を奇襲した。戦艦アリゾナを含む8隻の戦艦が損傷・沈没し、大打撃を与えた。しかし、アメリカの空母は事前に出港しており、最も重要な機動戦力は無傷だった。

この攻撃は山本五十六の構想に基づくものであった。彼の目的は、戦意を喪失させ、講和に持ち込むことであった。あくまで短期決戦による政治的決着が狙いであり、全面戦争の長期化を望んではいなかった。

一方、陸軍はマレー半島に侵攻し、中立国であったタイを通過するという国際法上きわどい作戦を実行した。台湾を拠点にした南方作戦では、フィリピンに駐留するアメリカ軍をも攻撃対象とし、各地で日本軍は連戦連勝を続けた。

12月16日には、戦艦大和が完成し、日本の海軍力は頂点に達したかに見えた。だが、その裏で日本には長期戦に備える戦略が欠落していた。資源、兵站、工業力、すべてにおいてアメリカに劣る日本は、短期決戦に望みを託すしかなかった。

山本五十六は、アメリカの空母機動部隊を壊滅させることを至上命令と考えていた。そして次に構想したのが「ハワイ攻略作戦」と「ミッドウェー島制圧作戦」である。ミッドウェーはハワイと日本の中間に位置し、太平洋の制海権を左右する要衝であった。

昭和17年6月、ミッドウェー海戦が勃発する。だがこの作戦は、アメリカに作戦意図を読まれており、待ち伏せされた日本艦隊は反撃を受ける。日本は4隻の主力空母――赤城、加賀、蒼龍、飛龍――を失い、事実上の航空戦力を壊滅させられた。

この敗北は、真珠湾以来の連戦連勝を打ち破る初の大敗であり、戦局の流れを大きく変える転換点となった。以後、日本は守勢に回り、長期戦を強いられる苦しい状況へと突き進んでいくことになる。

7月8日(火)人生2度目の丸亀製麺と真珠湾攻撃前夜の日本の状況

朝トレ、母送迎日なので5時出発
長岡大橋

f:id:academij:20250709092638j:image

朝は涼しい。信濃川西岸土手、大手大橋が見える
f:id:academij:20250709092641j:image

雲、と大手大橋
f:id:academij:20250709092634j:image


母送迎
母の調子悪い

帰り、人生2回目の丸亀へ
ざるうどん(大)とかきあげ

f:id:academij:20250709092631j:image

本執筆
Oチャンナレ編集

夜はきんぴらとか煮物とか
f:id:academij:20250709092645j:image

ナスの浅漬け
f:id:academij:20250709092628j:image

GORAの10年近く前のレビューを読む


学び 半藤一利 昭和13

開戦前夜の決断――「ニイタカヤマノボレ」の裏側で何があったか
    天皇の疑念、山本五十六の計算、そしてハル・ノートの衝撃

昭和16年(1941年)、日本は南部仏印への進駐を決定し、東南アジア全域への影響力を拡大しようとしていた。この進出は、英米をはじめとする列強との緊張をさらに高めることとなり、戦争はもはや時間の問題となりつつあった。

インドシナの軍事拠点化は、資源確保の必要に迫られた日本の選択だったが、その進駐はフィリピンを前線基地とするアメリカとの軍事的衝突を現実のものにした。フィリピンはアメリカ領であり、ルソン島の米軍基地は明らかに日本の南進政策への障壁となっていた。

この状況の中で、天皇と杉山元陸軍参謀総長との間で交わされた言葉が象徴的であった。天皇は、「支那事変は一ヶ月で終わると言いながら四年かかっている。南方も三ヶ月で終わるというのか」と強く疑念を示し、開戦への慎重さを滲ませた。

天皇は近衛文麿首相にも外交交渉を続けるよう命じた。しかし、アメリカとの協議はすでに限界に達していた。駐米大使・野村吉三郎は粘り強く交渉を続けたが、アメリカ大統領ルーズベルトは妥協を拒み、交渉は最終的に破綻する。

アメリカは、日本に対して極めて厳しい提案、いわゆる「ハル・ノート」を突きつけた。その中身は、満州からの全面撤退、三国同盟の事実上の放棄、中国からの無条件撤兵など、日本の大陸政策そのものを否定するものであった。

東條英機はこれを受け、「ハル・ノートを受け入れれば、日本は1931年、すなわち満州事変の前まで後退することになる。これまでの10年間の努力は水泡に帰す」と断じた。

近衛文麿はこの時点で政権の継続は不可能と判断し、辞職する。後継として登場したのが東條英機であり、開戦に踏み切る体制がここに確立された。

その裏で、海軍の山本五十六は開戦の準備に着手していた。彼は「米国との戦争は必ず日本を滅ぼす」と内心では考えていたが、一方で「いま、アメリカの海軍力が整う前、すなわち日本の海軍力がアメリカの7割に達しているこの瞬間こそ、戦うなら最後の機会である」と判断していた。

すでにアメリカは大規模な造船計画と航空戦力の拡充を進めており、時間が経つほど日本の勝算は薄れていく。そこで山本は、奇襲によって短期戦に持ち込み、アメリカの戦意を挫き、早期講和に持ち込むという構想に賭けたのである。

こうして昭和16年12月8日、「ニイタカヤマノボレ(新高山登れ)」の暗号が発信された。日本海軍はハワイ・真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。

だがこの時、ドイツはソ連との戦いで膠着状態にあり、英本土も完全には屈服していなかった。日本の外交・軍事戦略は「ドイツの勝利」を前提としていたが、その土台自体が揺らぎ始めていた。

理想や大義を掲げながら、現実から目を背けて国を滅ぼすような道は、避けるべきだった。だが、その教訓は、後の世でようやく語られることとなるのである。


7月7日(月)大本営と御前会議、対米開戦前夜、近衛内閣解散と松岡

朝トレ

長岡大橋へ 国道8号の側道

f:id:academij:20250708065749j:image

 

長岡大橋から
f:id:academij:20250708065756j:image

 

6:40頃の西岸土手 日陰をいく
f:id:academij:20250708065746j:image

 

ウオロク かつてはここに日赤があり昭和52年、祖父が没した場所

f:id:academij:20250708065753j:image

YouTube本の執筆再開


夜は白菜と鶏肉のうま煮
モロヘイヤ
f:id:academij:20250708065743j:image

学び 半藤一利「昭和 12」
追認の御前会議――国家意思は誰のものか

昭和15年(1940年)、日本の対外政策は重大な岐路に立たされていた。外務省内部では対米関係をめぐってさまざまな立場が存在し、外相・松岡洋右のような強硬な同盟路線を主張する者がいる一方で、親米派や穏健派も根強く残っていた。

アメリカ政府は、日本に対して三国同盟の破棄、北部仏印からの撤退、さらには満州の国際管理による分割統治を要求した。これらは中国からの完全撤兵を迫るものであり、事実上、日本の大陸政策を全面否定する内容であった。しかし、松岡はこれを一蹴し、妥協の余地を一切見せなかった。

戦争指導の中枢機関としては、大本営政府連絡会議が設けられていたが、その法的根拠は曖昧であり、内閣と陸海軍の合意によって国家の重要政策が決定されるという、極めて曖昧な構造を持っていた。

その最終確認の場が「御前会議」である。御前会議は天皇が臨席する形式をとるが、実態としてはすでに大本営政府連絡会議で決定された内容を追認する儀礼的な場にすぎなかった。天皇はここで一切の異議申し立てを許されず、発言権も与えられなかった。御前会議における「天皇の裁可」とは、軍部と政府の合意に対し、形式的な威光を与えるものでしかなかった。

その間、アメリカは日本に対する圧力を段階的に強めていた。すでに日本の外務省暗号はアメリカによって解読されており、日本の外交方針や交渉内容はすべて筒抜けであった。

アメリカは在米日本人の資産凍結を実施し、ついに石油の対日輸出を全面停止した。これは日本にとって死活問題であり、資源の大半を輸入に依存する体制では、経済封鎖に長く耐えることはできなかった。

この事態にあって、日本は南方資源の確保を急務と位置づけ、英米との衝突を覚悟する構えを強めていった。

一方、内政においても動きがあった。第二次近衛内閣は、対米強硬路線を主張し続ける松岡洋右を外すために、内閣そのものを解散するという手段を取った。松岡は日ソ中立条約締結で一時的に評価を高めたものの、独ソ戦開始後は対ソ戦参戦を主張して孤立を深め、外交の舵取りに混乱を招いていた。

近衛文麿自身は開戦に否定的でありながらも、軍部の意向に抗しきれず、松岡を排除するためには政権を一度リセットせざるを得なかったのである。

こうして、日本は外交・軍事・内政の全てにおいて統制を失いながら、戦争への坂道を転がり落ちるように突き進んでいったのである。


7月6日(日)希少な独立系うどん店「もんぺい」のざるうどんと上天ぷら、昭和15年の松岡外交と日本の状況

やはり薄くしてくれといっても結構のみ、酒は残る。
起きた瞬間はあれ?元気じゃんと思ってもしばらくすると酒が残ってることに気づく。

朝トレは休み

母を連れてお昼にうどん「もんぺい」さんへ。
日曜営業。客が数組はいってくる。
もんぺいとは屋号の名前のことらしい。つまり意味はない。

f:id:academij:20250707112805j:image

ざるうどん
f:id:academij:20250707112847j:image

上てんぷらとざるうどん。この天ぷら巨大なエビが3本入っていてめちゃプリプリでうまい。てんぷらはかなりうまいと思った。

f:id:academij:20250707112840j:image

ただうどんが讃岐うどんを謳っている割にはほそくて柔らかかった。
これかなりやわらかい。

うーん、再訪はどうなるか・・天ぷらが美味かったので料理自体のクオリティは高いのだ。

帰りに「なじらーて」でスイカ2個
その後ユニクロでオープンシャツを1枚買う。


学び
「全世界を敵に回す覚悟」――昭和十五年、日本の進路を決めた瞬間

昭和15年(1940年)、日本はついに北部仏印に進駐した。フランスはすでにドイツに降伏しており、仏印の統治権は実質的に揺らいでいた。北部仏印進駐は「平和進駐」の名目で行われたが、その狙いは英米による中国国民党への援蒋ルートを遮断することにあった。

一方、南方には石油、ゴム、スズ、タングステンなどがある。これらは英米にとっても貴重な資源なのだ。もし日本が米国から禁輸が発動されるような事態になった場合、これらゴムなどの南方資源を抑えておくことは日本にとって対米カードとして必要不可欠となった。これらを確保しなければ、アメリカによる経済封鎖に耐えることは不可能だった。

この頃、山本五十六は繰り返し「アメリカと戦争をすることは、全世界を敵に回すことになる」と周囲に警告していた。しかし軍中枢では危機感と焦燥が入り混じり、強硬論が支配的だった。

昭和15年7月、アメリカは日米通商航海条約を破棄した。これにより日本経済は資源供給の途絶という現実に直面する。経済封鎖は時間の問題であり、海軍や政府には「南進」か「屈服」かという二者択一の空気が濃くなっていった。

海軍の中枢は薩長閥の強硬派が事実上独占していた。海軍大臣及川古志郎は対米戦への準備を急ぐ方針を打ち出し、「南進こそ国策である」との主張を押し進めた。山本五十六は終始反対の立場を貫いたが、その声は日増しに孤立していった。

表面上は国民の戦意高揚も盛んに演出された。皇紀2600年の節目には、勝鬨橋が祝いの行事に彩られ、大政翼賛会が発足して政党の派閥も解体され、「一億一心」が合言葉になった。だが裏では不安と猜疑が漂っていた。

最後の元老・西園寺公望は、情勢を見極め「日本はこの戦争に必ず負ける」と語り、91歳で世を去った。

昭和16年(1941年)、松岡洋右外相はベルリンを訪問し、ドイツ政府から熱烈な歓迎を受けた。旭日旗がベルリンの駅前を埋め尽くした。松岡はドイツ軍服を「世界で最も美しい」と評し、ヒトラーとの会談でシンガポール攻略を提案された。ヒトラーは英国を屈服させるため、日本に南方進出を強く期待した。

続いて松岡はモスクワに赴き、スターリンと会談した。ここで日ソ中立条約が締結され、日本は北方の脅威を一時的に回避し、南進に一層傾くこととなった。

しかし、陸軍参謀本部は「ドイツが英国を打倒してから決断すればよい」と慎重論を残していた。つまりこの時は陸軍よりも海軍中枢のほうが強硬的だったのだった。

昭和16年6月、ドイツは突如ソ連侵攻を開始した。これを知った松岡は外交方針を転換し、「日本もソ連を攻撃すべきだ」と主張した。松岡はソ連よりもドイツを信頼し、北進論を鮮明にしたが、政府と軍内では南進か北進かで意見が分裂した。

この決定的な岐路をめぐり、御前会議で最終的な国家戦略が論じられることとなった。

こうして日本は、南方資源の確保、英米との対立、独ソ戦争の激化という複雑怪奇な情勢の中で、破局への選択を迫られていったのである。

7月5日(土)長岡市殿町の夜、新規開拓!4軒!やればできるもんだ。

朝トレ、折りたたみ傘をもって10k

長岡大橋わたる

f:id:academij:20250706100059j:image

信濃川西岸土手
f:id:academij:20250706100102j:image

大手大橋
f:id:academij:20250706100050j:image

けっこう雨が強くなる
f:id:academij:20250706100105j:image

SS後、オータニを抜ける
f:id:academij:20250706100107j:image

母の病院送迎
リンナイガスコンロのロースター部品の焦げ落とし
f:id:academij:20250706100037j:image

帰りは土曜日恒例スシロー
母は5皿を完食
f:id:academij:20250706100053j:image

醤油ラーメン、これはスシローより美味い!!
f:id:academij:20250706100056j:image

帰宅後、ZOOM2件、大阪のAさん、神戸のFさん

結局、リンナイの焦げは完璧には落ちない。ネットで探したら売ってたので注文。

夜は義弟と殿町行脚。

長岡藩。ここの女将さん、めちゃ怖い。旦那さんは優しい感じ。

イカの一夜干し。うまい!
f:id:academij:20250706100030j:image

ししとう
f:id:academij:20250706100048j:image

焼き鳥!これもめちゃくちゃ美味い!!ここ最高。って昔からある店だが初訪問か。


f:id:academij:20250706100033j:image

 

大吉、シャッターが開いている
f:id:academij:20250706100042j:image

火の国ラーメン。
f:id:academij:20250706100045j:image

高菜ラーメン。まあいたって普通か。近所のK家よりはうまい。
f:id:academij:20250706100040j:image

結局この日長岡藩のあとに新規開拓飛び込みでスナック4件店を回る
パブselene (みゆママ、ブラジル、フィリピン)
アメジスト 佐藤ママはゴルフオフィシャル11 年間80R、
ラハイナ(小千谷出身のママ、ラーメン話)、あらら(長野小諸出身のママ)
最後は火の国 食事をあわせると合計6軒
どの店も良心的な値段。

帰宅後即行寝る。

7月4日(金)大谷精肉店、昭和15年ドイツの快進撃と戦争突入

朝トレ 10k 大谷肉店、長町かな、ここの近くに住んでたことがありよくメンチとかコロッケ買ったな。まだ営業してるのはすごい。

f:id:academij:20250705130226j:image

昔この先にキャバレーハワイとパチンコ屋があった。

 

流石に6:30近くになると日差しは危険。

信濃川西岸を降りたところを進む。
f:id:academij:20250705130229j:image

 

日赤の施設。
f:id:academij:20250705130240j:image

 

大手大橋
f:id:academij:20250705130236j:image

YouTube作業

夜はカレー
f:id:academij:20250705130233j:image

 

寝る前に1時間半ほど素材集め。

23:00から就寝


学び 半藤一利の昭和史

昭和十五年の分岐点――孤立と対決への道
  近衛文麿内閣と三国同盟、山本五十六の苦悩、星ヶ丘茶寮で交わされた密議


昭和15年(1940年)、日本は戦争と孤立への道をさらに深めていた。米内光政内閣は中国戦線の膠着を収拾し、英米との対立を避けるため慎重な外交を模索していた。しかし、ドイツの欧州制覇に触発され、「日本もドイツに続くべきだ」とする世論が急速に勢いを増していた。

同年5月、ドイツは電撃作戦を発動し、オランダ・ベルギー・フランスをわずか数週間で降伏させ、欧州大陸の大半を掌握した。この衝撃的な勝利は、日本国内の親独感情を一気に高めることとなった。

米内内閣は三国同盟に終始慎重、事実上反対の立場を取った。しかし陸軍の圧力と国民の高揚した感情に押され、ついに総辞職に追い込まれた。

後継として、再び近衛文麿が首相に就任した。近衛は「反英米」の姿勢を一層鮮明にし、しばしば東京・青山の星ヶ丘茶寮に政財界やマスコミの有力者を招いて密談を重ねた。星ヶ丘茶寮は、閑静な日本庭園を備えた料亭であり、戦前の政界における重要な会合の場であった。ここで交わされた言葉は、やがて国策の方向を決定づけるほどの影響力を持った。

新内閣の外務大臣に任じられた松岡洋右は、日独伊三国同盟だけでなく、さらにソ連を加えた「日独伊ソ四国同盟」を構想した。松岡は「米英を封じ込めるにはソ連とも提携すべきだ」と主張したが、この案は近衛の性急さとあいまって周囲に強い不安を与えた。

陸軍は三国同盟を国策と位置づけ、外交と内政に強い圧力をかけた。もともと海軍は三国同盟に反対し、特にアメリカとの衝突を避けるべきだと考えていた。しかしドイツの電撃戦の成功と親独世論の高まりに押され、最終的には賛成に転じた。

この海軍内部で、山本五十六は一貫して慎重論を唱えていた。彼は「アメリカとの戦争は絶対に避けるべきだ。戦えば必ず国が滅びる」と周囲に語り、同盟推進に批判的だった。しかしその姿勢が陸軍や親独派の反感を買い、海軍大臣には就任できず、連合艦隊司令長官に任じられた。以後、山本は開戦不可避となった場合に備え、航空戦力の徹底的強化と真珠湾攻撃を含む作戦構想を練ることになる。

一方、アメリカのルーズベルト大統領は、日本への圧力を次第に強め、航空機用ガソリンや鉄鋼の対日輸出を制限した。日本は資源のほとんどを輸入に依存する「石油・鉄・ゴムの三色国」であり、経済と軍事の生命線を絶たれつつあった。

資源確保のため、日本は東南アジア進出を構想した。特に、フランスの降伏によって実質的に無防備となったフランス領インドシナ(現在のベトナム南部)に拠点を築こうと考えた。しかしこれを実行すれば、アメリカは金融凍結や石油全面禁輸に踏み切る危険が高いと予想された。

欧州ではロンドン空襲が激化し、ドイツ空軍が英国を屈服させるべく猛攻撃を加えた。この光景は日本の親独派に「ドイツは欧州を支配する」との幻想を抱かせ、三国同盟支持を一層強める要因となった。

こうして昭和15年の日本は、陸軍の意向とドイツの快進撃、国内の世論に引き寄せられるように、対米英対立の深みへと踏み込んでいったのである。

7月3日(木)絶品、柴漬け入りチャーハン。JR貨物は何を運ぶのか・・独ソ不可侵条約、平沼内閣退陣など。・・

朝5時、トレーニングへ出発
半藤一利の昭和史を聞きメモを取りながら。。

長岡大橋から蔵王橋方面
結構早朝はもやっている・・

f:id:academij:20250704140951j:image

走り、メモをとるときだけ歩く(Googleドキュメントに打ち込む)

殿町踏切 JR貨物が長岡駅を素通り(停まる必要はそもそもない)
しかし何を積んでいるのだろう。。鉄道でモノを送る人というかニーズはあるんだな。。
f:id:academij:20250704140942j:image

長距離の場合、トラック輸送よりも安くなるし、大量に送る場合も割安になるようだ。

母送迎。
迎えにいくと久しぶりに調子悪い(元気よすぎ)。

帰りは丸亀に寄ろうと思ったが断念してローソンでカップそばとおにぎり購入

f:id:academij:20250704140954j:image

Oチャンの素材集めを地道に進める

夕食はチャーハン。でもこのたくあんの浅漬?がめちゃうまい。
f:id:academij:20250704140948j:image

酢の物
f:id:academij:20250704140939j:image

妹による柴漬け入りのチャーハン。これはおそらく長岡のラーメン「栄華楼」にインスパイアされたものだろう。美味い。
f:id:academij:20250704140945j:image

夜はピアノ弾いたりいろいろやって23時頃就寝か。

学び
日独伊三国同盟と独ソ不可侵条約について、平沼内閣総辞職まで

昭和14年(1939年)、日本は中国戦線の泥沼化と欧州の急激な情勢変化に直面し、国家の進路をめぐって深刻な混迷を深めていた。

近衛文麿内閣は、戦局の打開と欧州強国との協調を模索したが、政局を支えきれず退陣し、平沼騏一郎が首相に就任した。この頃、ドイツから日独伊三国同盟の提案が正式に持ち込まれた。陸軍はこれに賛成し、同盟締結で中国戦線を有利に運び、英国や米国を牽制する意図を抱いた。一方、海軍は真っ向から反対した。

海軍はドイツが本当に日本を助けるのか疑問視し、米英を敵に回すことは制海権を喪失し、国力を著しく消耗させる危険が大きいと考えた。

当時の知識層には、ドイツを文明の範とみる意識も根強かった。憲法や医学、文学など、近代日本の多くの文化はドイツから輸入された。ドイツ人は勤勉で規律を重んじ、法に従う単一民族国家のゲルマン民族であり、日本人とよく似ているという親近感が語られた。

昭和14年4月には天津事件が発生した。国民政府の背後にいる英国の影響を排除すべきだとの声が陸軍内に強まり、山下奉文ら強硬派が天津の英租界を封鎖した。この排英運動は新聞各紙が共同声明を出して世論を煽り、国民感情の敵愾心を高めた。

一方、アメリカは日本にとって正面の敵として台頭しつつあった。その頃、アインシュタインがウラン235の中性子核分裂を軍事利用すべきだと、ルーズベルト大統領に書簡で提案した。核兵器開発が現実の脅威として始動した時期である。日本では零式艦上戦闘機(零戦)の開発が進み、航空戦力の近代化が加速した。

国内では国家総動員法に基づき、統制が徹底された。お中元や贈答習慣は贅沢とされ、長髪やパーマは禁止されるなど日常生活にまで統制が及んだ。金の徴発も進み、市民から貴金属を徴収する政策が行われた。永井荷風はこの状況を風刺し、個人の自由が圧迫される様を描いた。

中国大陸では満蒙開拓義勇軍が農村の次男三男や都市の失業者を「国策移民」として送り出した。同じ頃、朝鮮では創氏改名政策が進められ、伝統的な儒教文化や姓の継承が踏みにじられた。

欧州情勢はさらに激動した。スターリン率いるソ連は当初、英仏と提携する動きを示していた。ポーランドはすでに英仏と同盟関係にあり、ドイツがポーランドを侵攻すれば、必ず英仏が参戦する情勢であった。ヒトラーはこの場合、英仏だけでなくソ連とも敵対する危険があると考えた。これを避けるため、先にソ連と提携して背後を固める必要があった。

こうした計算のもと、昭和14年8月、独ソ不可侵条約が突如締結された。これは欧州情勢の「青天の霹靂」となり、対ソ作戦を前提に動いていた日本の関東軍と陸軍に衝撃を与えた。

この条約締結によって日本外交の対独協調路線は根底から揺らぎ、平沼内閣は「もはや欧州情勢は複雑怪奇」と言い残し、総辞職を余儀なくされた。

その後、陸軍の意向を背景に阿部信行陸軍大臣が首相に就任した。天皇は陸軍が推挙した阿部を正式に任命した。一方、率直にものを言う山本五十六は、海軍大臣就任は叶わず、連合艦隊司令長官の任に就くこととなった。

こうして昭和14年の日本は、国内の統制強化と対米英対立の深化、欧州情勢の急変という三重の圧力の中で、さらに危うい道を進んでいったのである。


7月2日(水)長岡花火屋形船の船着き場、夕涼み散歩は良き、国家総動員法(昭和13年)で日本は暗黒時代へ

朝5時に母が散歩に行きたいと、
今日も暑いので今の時間帯がベストと出発。
ぐるりと土手をまわる。涼しいな。
東京と違って自然が多いので早朝と夜は気温が冷え込むのだろうか。。

 

f:id:academij:20250703113334j:image

その後母を家に送り10Kウォークへ
大手大橋に向かう東岸土手 花火の準備が進む
f:id:academij:20250703113325j:image

大手大橋の下道をいく。
f:id:academij:20250703113332j:image

屋形船専用の船着き場
f:id:academij:20250703113337j:image

Dチャンの素材収集新方針と新しい検索プロンプトの発見。
動画だけをバンバン収集するというもの。

夜は煮物など。

夕涼み散歩に一人で出かけた。眠気覚ましを兼ねる。

f:id:academij:20250703113322j:image

夜もいいな。ってこの時19時過ぎてる。
f:id:academij:20250703113319j:image

我が母校、川崎小学校と夕暮れ
f:id:academij:20250703113329j:image

Oチャンの素材収集台本調整
ウイスキーを薄くして水割り。



学び
昭和11年の2.26以降、軍人が政治中枢を握り軍部の独走を許す国家総動員法の提出と発動(12-13年)。日本が暗黒時代に入っていく全てがこの期間に整えられていった・・・


昭和12年(1937年)に始まった日中戦争は、当初の予想を超えて泥沼化していった。南京を陥落させても中国国民党政府は屈服せず、抗戦を継続した。

中国共産党の八路軍は、正面衝突を避け、農村を基盤に「点と線の戦略」を展開した。鉄道や補給線を襲撃し、日本軍を消耗させながら支配地域を拡大する持久戦に持ち込んだ。

一方、近衛文麿首相は強気の外交方針を打ち出し、「国民政府を対手とせず」とする声明を発表した。これは蒋介石政権との交渉を事実上拒絶する立場であり、戦争の長期化を決定づけた。

しかし、参謀本部の一部には補給線の確保や対米英関係の悪化を危惧する和平派も存在していた。北支に展開する兵站の維持は困難を極め、兵力の膨張と補給の疲弊が深刻化していった。

昭和12年、日本はついに海軍軍縮条約(ワシントン条約・ロンドン条約)から脱退した。条約では主力艦保有を米英に対し5:5:3の比率に制限されていたが、これを拒否し、戦艦や空母の拡充を進めた。

この軍備拡張の流れの中で、陸軍では東條英機らが台頭し、対米英戦争を念頭に置いた国家総動員体制の強化が進んだ。昭和13年(1938年)、近衛内閣は国家総動員法を提出し、議会の議決を経ず勅令だけで経済・労働・言論などあらゆる政策を統制できる仕組みを整えた。

国家総動員法の最大の特徴は、勅令によってほとんど無制限にあらゆる政策を実行できる点にあった。議会の議決を経ず、内閣の判断だけで経済・労働・物資・報道・金融などの統制を強行できる仕組みである。

具体的には、産業の統制、賃金や価格の制限、徴用令状による労働力動員、報道機関への検閲や指示、資本や企業の活動制限まで、社会のあらゆる分野が対象となった。平時の憲法上の権利は大きく制約され、国家の意思が優先される体制が制度的に確立された。

民政党や政友会など保守政党は、「議会軽視の独裁体制だ」と強く反発した。一方で、左翼勢力の一部は「資本主義体制の解体を促進できるかもしれない」と賛成の姿勢を見せるなど、支持と批判は分かれた。

国家総動員法に基づき、以後の日本は戦時体制へ加速度的に移行する。政府は生産・労働・言論を統制し、総力戦に備える名目で社会のあらゆる自由を抑圧した。これにより軍人と官僚が政治を直接動かす権限を握り、立憲政治の形骸化が決定的となったのである。



民政党や政友会からは「議会無視の独裁」と反発が相次いだが、左翼勢力は「資本主義体制を動揺させられる」と賛同する一面もあった。国家総動員法を批判した西尾末広代議士は除名され、当時ムッソリーニのイタリアに似た権威主義への移行が指摘された。

一方、対中戦線では昭和15年(1940年)、国民党の重鎮・汪兆銘を南京に擁立し、傀儡政権である中華民国政府(南京国民政府)を成立させた。近衛は「東亜新秩序」の建設を掲げ、米英の植民地支配を打破する理想を宣伝したが、欧米諸国はこれを日本の侵略行為とみなし、対日姿勢を硬化させた。

北方では昭和14年(1939年)、満蒙国境のノモンハンで関東軍とソ連・モンゴル連合軍が衝突する。これは関東軍の独走による挑発が発端であり、戦車・航空機を大量投入するソ連の近代火力に対し、日本軍は精神主義と歩兵突撃で挑んだ。

結果は大敗に終わり、死傷者は2万人を超えた。この敗北は陸軍に衝撃を与え、以後、戦術や装備を根本から見直し、火力兵器の整備を進める契機となった。

こうして日本は対中国戦線での膠着、ソ連との国境紛争、欧米との対立を同時に抱える袋小路に陥り、さらなる破局へと歩みを進めることになる。

7月1日(火)Tさんと会食、シェルタリングスカイ、2.26-日中戦争までの話

朝不調
ちょっとウイスキーを飲みすぎたか。。
体にあわなくなったのか。。

Dチャン素材集め
母送迎

帰りはスシローへ
エビ味噌ワンタン麺

f:id:academij:20250702092919j:image

マグロの手巻きを巻いてもらって出してもらう
f:id:academij:20250702092922j:image

帰宅後、パイソンプログラマーとMTG

18時半から元塾生のTさんと会食
丸天で。

やきとん 絶品なり
カシラとハツ
f:id:academij:20250702092925j:image

レバー
f:id:academij:20250702092916j:image

坂本龍一のシェルタリングスカイのピアノ譜をDL
夜ずっと弾いてる



朝の学び
2.26事件から日中戦争前夜までの話
2.26で鎮圧された皇道派の残党が日中戦争を引き起こしたか。。
軍部が政治中枢を握る・・・


昭和11年(1936年)、陸軍皇道派青年将校らが引き起こした二・二六事件は、日本の立憲政治の命脈を絶つ重大な分岐点となった。

事件の背景には、昭和恐慌と農村の疲弊、既成政党や財閥への国民の失望、そして統制派と皇道派の陸軍内の激しい対立があった。昭和10年、皇道派の相澤三郎中佐は、統制派の中心人物である永田鉄山を軍務局の執務室で斬殺した。青年将校たちはこの事件に鼓舞され、「相澤に続け」と決起の機運を高めていった。

昭和11年2月26日未明、東京は深い雪に覆われていた。青年将校たちは歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊を動員し、岡田啓介首相官邸をはじめ、政治中枢への襲撃を開始する。

高橋是清大蔵大臣の邸宅では、寝室に押し入った兵士により高橋は布団の上で即座に射殺された。夫を殺された妻・たけは、血に染まる遺体にすがり「せめて顔だけは」と遺体を拭ったが、銃弾で顔も損壊していたといわれる。

牧野伸顕内大臣の邸宅も襲撃を受け、家人が必死に脱出路を確保し、牧野は裏口から逃れた。岡田啓介首相邸では、義弟で秘書官の松尾伝蔵が岡田と間違われて射殺され、夫人の岡田道子は流れ弾に怯えながら必死に息を潜めた。

鈴木貫太郎侍従長の邸宅も襲われ、鈴木は銃撃を受け瀕死の重傷を負った。鈴木の妻・たかは、もともと昭和天皇の乳母であったため、事件の第一報を宮中へ届ける役を自ら果たした。

報を聞いた昭和天皇は直ちに軍服に着替え、「これは単なる内政問題ではない。大元帥たる私が鎮圧する」と明言し、臨時内閣の樹立や軍事政権を認めることを拒否した。

青年将校たちは、荒木貞夫元陸相を首班とする「昭和維新内閣」を樹立し、腐敗した政党政治を排除する計画を立てていたが、天皇の断固たる態度でその目論見は潰えた。

宮城(皇居)を占拠する計画もあった。半蔵門から突入し、近衛歩兵第三連隊をもって皇居を抑える予定だった。しかし半蔵門を守る近衛師団に入場を拒否され、計画は破綻した。

警視庁は約400人の部隊により制圧され、東京の行政機能は一時麻痺した。朝日新聞社や毎日新聞社、電通などの言論機関も攻撃対象にされ、新聞紙上では恐怖と緊張が広がった。

鎮圧にあたったのは陸軍中央の統制派であり、石原莞爾や本庄繁らが首謀者の説得と包囲を進めた。朝日新聞の飛行機が上空からビラを撒き、ラジオも投降を呼びかける放送を繰り返した。

数日後、青年将校らは「天皇陛下の御意思に背けない」として投降を決断する。事件は昭和11年2月29日に終息した。

だが、この決起により皇道派は完全に壊滅した一方で、統制派が陸軍を掌握し、以後の軍部支配を決定づける契機となった。

首謀者らは「7・5裁判」で裁かれ、昭和11年7月12日、代々木練兵場で12名が銃殺刑に処された。

事件後に発足した広田弘毅内閣は、陸軍の圧力で「陸軍大臣現役武官制」を復活させ、軍部の政治支配を事実上公認した。

昭和12年(1937年)、日本は海軍軍縮条約から脱退し、同年7月7日、北京郊外の盧溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)が勃発する。

当時、中国では国民党と共産党の対立が続いていたが、共産党の周恩来らが国共合作を進め、抗日統一戦線が形成された。

蒋介石は西安事件で張学良に監禁されたが、抗日方針に転じることを決断した。盧溝橋では牟田口廉也連隊長が現場で独断攻撃を命じ、局地的事変は全面戦争に拡大した。

この開戦は天皇の裁可を得ない既成事実の積み重ねであり、海軍次官の山本五十六は「陸軍の謀略」と断じた。

日本軍は南京を攻略し、大量虐殺が発生。戦後、東京裁判ではこの行為の責任が問われ、田中隆吉らが証言した。

事変と宣戦布告のない戦争の境界は曖昧で、日本は泥沼の大陸侵略へ突き進むこととなった。